ホーム > 六代目船谷吉松ブログ > 佐草奈美(さそう なみ)の小説
六代目吉松 あらため 佐草奈美 です。
ステキな主人公と、
いかにも、って感じの悪者と、
純真な子供と、
無垢な娘と、
信心することの大切さ+勧善懲悪。
典型的な「いい話」にしようと、がんばりました。
ラストをホラーっぽくしないように心掛けながら、
ハッピーエンドを常に意識しながら。
そうしないと気がつけば、
「不安な結末」
「怪異な結末」
「否定的な結末」
「嫌味な結末」
「その他もろもろ、あと味の悪い結末」
にしてしまいがちなので(笑)。
ある雑誌で作家が書いていましたが、
明るい内容の小説を書く作家ほど、日常の性格が歪んでいる
とのこと。
逆もまた、しかり。
・・・私の性格は、「極めて健全」 ということで。うんうん(笑)。
※「佐草奈美 小説書き終わり」のカテゴリに、「歯に巣食う蛇の話」のウェブページ(全話連続版)がアップされています(携帯サイトからの場合、アクセスできない場合があります)。
次の朝、和尚は宿坊で目を覚ましました。
見開いた目に飛び込んできた天井に、違和感を感じながら。・・・あれ、本堂にいたのではなかったのでしょうか。いつの間に宿坊まで来たのでしょうか。
眠っていた。・・・何と、眠気をかき乱すあの凄まじい疼痛の中、眠れたというのでしょうか。
目を覚ました自分の状況にいぶかしさを感じながら、和尚は右頬に手をやりました。・・・おや。
奥歯の痛みは嘘のように消えていました。昨夜、いつものように読経を続け、失神してしまったはず。その間際まで、大蛇の牙の毒が右耳の後ろを痺れさせるような痛みを感じていたはず。大蛇は決して死に絶えてはいなかったはず。なのに、どういうことなのでしょうか。
不思議なことだらけのまま、和尚はゆっくりと体を起こしました。ふと見ると、自分の傍らで、子供がまだ寝息を立てています。
娘はすでに旅立ったのでしょうか。宿坊に姿は見えませんでした。夜具を片付けて出て行った、というよりは、跡形もなく消えてしまったかのようでした。最初から、ここにいなかった。そんな風にも感じて、和尚は少し首を傾げながら、今一度子供の様子を眺めました。途端、ぱちりと子供の目が開きました。じっと和尚の顔を見つめた後、子供は和尚の首にかじりつかんばかりに抱き付きました。
娘もいなくなり、子供も目を覚ましたので、和尚は本堂へと向かいました。どうしたのかい、と問いかけましたが、子供は何も言わず抱きついたままです。その様子に、和尚はそのままに本堂へと向かったのでした。
障子を開けた瞬間です。和尚は思わず自分の目を疑いました。
ご本尊様がいなくなったはずの本堂に、ご本尊様が帰ってきていたのです。一尺足らずの小さな、それでいて神々しい観音様の姿がそこにあったのです。和尚と子供のふたりは、呆気に取られたように、ぽかんとしてしましいました。抱きついていた子供は、和尚からずり落ちてしまいました。
どちらともなく、ふたりはご本尊様の前に座りました。そして目を閉じ、一心不乱に手を合わせました。
いつともなく、和尚は読経を始めていました。大蛇に巣食われる前の、清々しい和尚の声が本堂いっぱいに響きます。苦悶のうめきが混じることはありません。その心地よさに、子供は顔を上げ、閉じていた目を開きました。
目の前には帰ってきたご本尊様。その姿を眺めているうちに、子供は思わず、あっと声をあげました。
ご本尊様の口元から、蛇の尻尾の先がちろりと垂れ下がっていました。
隣で読経を続ける和尚は、このご本尊様の変化にきっとまだ気が付いていないでしょう。いや、気が付いたとしても、その意味はきっとわからない、子供はそう思いました。子供は横で読経を続ける和尚の顔を見上げると、手を合わせたまま、にっこりと微笑みました。
蛇を咥えたご本尊様も、優しく微笑んでいます。
了。
ありがとうございました。
子供が手洗いに行きたくなり、宿坊で目を覚ましました。寝ぼけ眼でふらふらと歩いていると、本堂の中で何かが光っていることに気が付きました。目をこすってよく見たおかげで、眠気は取れましたが、代わりに恐ろしさがこみ上げてきました。でも、そこは村でも評判の腕白小僧。羽虫のように、その光に吸い寄せられていきました。
本堂の障子を少し開け、子供は中を覗き込みました。目に飛び込んできた光景に、子供は思わず息を呑みました。
仰向けに倒れている和尚に、あの、旅の娘が覆いかぶさっておりました。そして、その可憐な唇は和尚の半開きになった口を吸っていたのです。光は娘の体全体からあふれ、和尚を包み込んでおりました。
和尚の口から何かが吸い出されます。神々しい光の中で、真っ黒な紐のような物体がはっきりと現れました。それは娘の口に吸い込まれることを拒むように、激しくのたうちまわっています。そのほとんどが娘の口に飲み込まれてしまい、残すは尻尾だけとなりましたが、必死で抵抗しているようです。
この、必死で抵抗する尻尾を見て、子供の脳裏をかすめたのはあの時の大蛇の記憶。よみがえった恐ろしさに、子供はその場に昏倒してしまいました。
その音に気が付いたのでしょうか。娘は尻尾を咥えたまま、音もなく子供のそばに近寄りました。子供を抱きかかえ、仰向けに倒れている和尚の胸の上に横たえます。そして、とても娘とは思えない力で、和尚と子供の体を一度に抱きかかえると、光とともに本堂から出て行ってしまいました。
続きは次回。
旅の疲れが出たのでしょう。娘は宿坊に退くと一番先に眠ってしまいました。薬を手に入れたという安堵感も手伝ったのかもしれません。最初は遠慮して、薬を受け取ろうとしなかった娘でしたが、和尚が事の顛末を語るとき、ご本尊様と交換した、という話をしなかったせいもあったでしょう。両手を合わせ、何度も頭を下げて、薬を受け取りました。
和尚のそばには子供がいました。うつらうつらしているのですが、本堂にいる和尚のそばを離れようとしません。和尚は子供に話しかけました。
「もう、やすみなさい」
その声にはっと目をさました子供は、和尚の方を見上げました。
「どうして、どうして、薬を渡してしまったの」
今も和尚を苦しめ続けているであろう、神経に爪を立てるような痛みは直らないことになりました。加えて、薬師に渡してしまったこの寺のご本尊様も戻ってこないことになりました。子供の質問は当然とも言えました。
「私はね・・・」
痛みが強くなったのでしょうか、少しこらえるような表情をしてから、和尚は続けました。
「お前に感謝しているのだよ。これで、苦しんでいるあの娘の母様を助けることができる。お前が薬とご本尊様を交換してきてくれたおかげだ。きっと、ご本尊様も喜んでおられるよ」
そして和尚はこの後、口にはしませんでしたが。
・・・私の奥歯に閉じ込めることで、そして私が読経し続けることで、この大蛇は村人達を襲うことはできないだろう。私を苦しめようと奥歯に巣食ったのを幸い、私は、この大蛇と心中するつもりなのだよ・・・。
「ね。だからもう、やすみなさい」
子供を宿坊まで連れて床に寝かしつけると、和尚はひとり本堂に向かいました。眠りを妨げる痛みが続くのならと、以来和尚は毎晩読経を続けていたのです。苛烈な痛みと闘いながら、大蛇を誅していたのです。退治されまいと、大蛇も力任せに暴れます。奥歯は減り込むような痛みです。耳の穴から何かが噴出してきそうです。何度も失神しながら、和尚は読経をし続けました。
そしてこの夜、和尚が何度目かの失神をしたときのことでした。
続きは次回。
夜、ご本尊様のいない本堂に、和尚の読経の声が響きました。途中、痛みが苦しいのでしょう。小さなうめき声が何度か混じりました。額の脂汗がふつふつと沸いて出ていました。
ですが、勤行を終えた後の夜は、少しだけ和尚を慰めてくれました。普段は和尚以外誰もいない寺に、何しろふたりの来訪者がいるわけです。会話の尽きない時間に、和尚は少しだけ奥歯の痛みが和らぐ思いでした。
話題はこの娘の旅の理由になりました。今まで明るく話をしていた娘でしたが、この話になると、少しだけ顔が曇りました。
「実は・・・」
蝋燭の明かりが揺れ、娘の顔に濃い影がさしました。
娘は年老いた母親との二人暮しとのことでした。あるときその母親が流行り病で床に伏し、咳が止まらなくなってしまったそうです。そんな折、都から帰る途中の行商人が、娘の住む村を訪れたとのこと。娘が、その行商人の語る都の噂話に耳を傾けていると、どんな病にも効く、大陸伝来の貴重な薬があるとのことでした。
娘は早々に旅支度を整え、母親の看病を叔母に任せて、都に向けて旅立ち、この村までやってきたとのことでした。
娘の話に、和尚と子供は思わず目を丸くして顔を見合わせました。娘が求める大陸伝来の薬、今この寺にある、あの薬に間違いないでしょう。娘は彼らの様子を見て、
「どうか、なさいましたか」
と少し怪訝そうにたずねました。
和尚は懐から小さな袋を取り出しました。
「今のお話の薬は、おそらくこれになりましょう」
今度は娘が目を丸くする番でした。差し出された薬をまじまじと見てから、娘は和尚の顔を見上げました。
「どうして、これを」
娘に尋ねられて、和尚は事の顛末を話しました。そして、こう付け加えました。
「差し上げます。母様に飲ませてあげてください」
最後は、子供がひとり目を丸くしました。
続きは次回。
ここまで話が終わると、和尚は子供を優しく抱きしめました。泣き止まぬ子供は、和尚の胸の中でひくひくと肩を揺らしています。和尚は少し乱れた髪を直すように子供の頭をなで、
「大丈夫。明日一緒に行って、もう一度お願いしようね」
そう言いました。そして、
「父様のげんこつが怖かろう。今日はここに泊まっていきなさい」
子供の両肩に手を置いて、子供の目を見てにっこり笑い、そう続けました。やせこけて、落ち窪んだ和尚の目でしたが、何とも言えない温かみを子供は感じていました。
和尚は子供を寺に残すと、某の家に向かいました。今夜、某の子供が寺に泊まることを許してもらうためです。子供が寺に来たのは夕暮れ時でしたが、日は落ちかけて、頭の方を残すばかり。あたりはすっかり暗くなっていました。
和尚が某の家に出かけている間、子供はひとり、寺の留守番をしていました。泣き疲れたのもあって、子供は少し眠気がさしていました。
子供が少しうつらうつらしかけた、そのときです。誰かが寺に訪ねてきました。それは色の白い、美しい娘でした。その格好から旅の者であることが、子供の目にもわかりました。この娘は子供の姿を見つけると、
「申し訳ございません。今晩、泊めていただくわけにはまいりませんでしょうか」
丁寧な口調でそう告げました。
和尚が寺に戻ると、子供のそばに美しい娘が座っておりました。粗末な旅の格好ではありますが、何かしらの気品を和尚は感じました。そして娘から話を聞くと、
「それはお困りでしょう。どうぞお泊りください」
と笑顔で応えました。
続きは次回。
ある日の朝のこと、和尚は村はずれの家に回向に出かけました。和尚が歩く振動ですら、奥歯に巣食う蛇は利用するかのように痛みを発していました。
その様子を隠れて見ているものがおりました。某の息子、あの子供です。和尚が遠ざかり、小さくなっているのを見届けると、子供は音を立てないように寺の中に入っていきました。
そして、何かを抱えて子供は出て行きました。
その日の夕方のこと、寺に訪ねてくるものがありました。村はずれの家の回向を済ませ、ちょうど帰ってきた和尚に鉢合わせるように。それは、あの子供でした。子供の姿を見つけると、和尚は優しい笑顔で、
「おや、どうかしたのかい」
と応えました。子供は黙っています。何も言わない子供を、和尚は寺の中に案内しました。
「父様に叱られたのかい」
うつむいた子供の顔を覗き込むように、和尚は語りかけました。すると子供は、何も言わず懐から小さな袋を差し出しました。
「これ、は・・・」
和尚が問いかけると、両目いっぱいに涙をためて子供は顔を上げました。驚いた和尚でしたが、子供が口を開くまで、静かに優しく見守っていました。
子供は、ぽろぽろと涙を流しながら、小さな声で話し始めました。
子供の話した内容に、さすがの和尚も動揺の色を隠せませんでした。村人達皆が自分のことを心配してくれていること。万病に効くとという薬を買い求めに行ってくれたが不首尾となったこと。
そして・・・、子供がご本尊様を持ち出し、薬師の持つ薬と交換したこと。
薬師は子供からご本尊様を受け取るや、嘗め回すように眺めはじめました。顔をまんじりと見たり、逆さにしてみたり。ごつごつとした薬師の手で触り続けられるご本尊様を見ていて、子供はだんだん恐ろしくなってきました。自分がしてしまったことが、とんでもないことだと感じ始めていました。そして、
「や、やっぱり、返しておくれ」
子供は薬師に向かって言いました。
その言葉に、薬師はじろりと子供を見ると、
「馬鹿言うんじゃないよ。その袋を持ってさっさと帰りな」
突き放すように言い捨てると、ご本尊様を抱えて、薬師は奥へと消えてしまいました。
「あ、あ・・・」
子供はなす術もなく、目の前に放り置かれた袋を手に取ると、ふらふらとその場を立ち去り、寺に向けて歩きだしました。
続きは次回。
和尚の奥歯に巣食う蛇は、昼夜を問わず暴れまわります。眠りを妨げます。食事を妨げます。和尚の表情を歪ませます。そんな様子を村人達に気付かれまいとして、和尚は笑顔を絶やすことはありませんでした。
ただ、読経の際の苦しげな表情と、睡眠不足と絶食状態から来るやつれた表情は隠しようがありません。村人達は和尚のことを大層心配しておりました。でも、理由を聞いても何も答えず、平静を装う和尚に、村人達は何もできないでおりました。
しばらくしてからのこと、村で採れた野菜を都に売りに出ていた男が、あるうわさを聞きつけてきました。話によると、万病に効くという薬を、都で一番の薬師が手に入れたらしい。大陸伝来の、とても貴重な薬で、都にもふたつとないものであるらしい。
この話を聞いた村人達は、早速に相談を始めました。和尚のために何とかその薬を手に入れようと。そして、皆で財を出しあって、その薬を買いに行こうということになりました。
程なく財は集まり、村を代表して某が都に向かいました。
都で薬を買い求めた某でしたが、不首尾と終わりました。薬師は某の持ってきた財を横目に、
「この程度ではお譲りできません」
とひとこと告げるだけ、そそくさとその場を立ち去ろうとしました。
そこを何とか、と食い下がる某に対し、薬師は
「お前様の村にある寺の、ご本尊様と交換なら考えましょう」
と、にやりと笑いました。
某の家に集まった村人達は、この話を聞いて皆低いうなり声をあげるばかりでした。和尚のためにと皆で考えたこと、この話を和尚にしたところで、承知するわけはないでしょう。村人達にとって大切な寺のご本尊様。そのことを誰よりも強く感じているのは、他ならぬあの和尚です。自分の問題のためにご本尊様を人手に渡すようなこと、たとえそれが村人達の総意であっても、あの和尚は承知しないでしょう。どうしようもない状態に、皆のうなり声は溜息に変わるばかりでした。
誰かがぼそりと言いました。
「このままでは和尚は、死んでしまうかもしれん」
この大人達の会話を、あの子供、某の息子が青い顔をして聞いていました。
続きは次回。
そんな出来事からしばらく経ったある日のことです。寺での勤めを済ませ、和尚が水を飲もうと柄杓を掬ったときのことです。柄杓の水の中、和尚は小さく蠢くものを見つけました。和尚は慌てて口を閉じようとしたのですが、一瞬遅れてしまいました。それは半開きになった和尚の口に飛び込んでいきました。
その日の夜、和尚はいつものように寺に安置されたご本尊様に向かいました。大きさは一尺にも満たない、小さなご本尊様。でも由緒正しき寺にふさわしい、神々しい姿の観音様です。相対して、いつものように読経を始めます。その時です。和尚は激しい歯の痛みに襲われました。右の奥、激痛は歯を越えて頭にまで達します。右耳は千切れんばかりです。さすがの和尚も堪えきれず、読経を止め、本堂の床に突っ伏してしまいました。
しばらくして、呼吸を整え、額から滲み出た汗をふき取ると、和尚は姿勢を正して読経を続けました。が、また先程と同じ痛みが和尚を襲います。鋭利な刃物が奥歯から脳天に向かって飛び出し、頭の中をかき回しているかのようです。痛みに意識は朦朧とし、経文の文字がかすれていきます。和尚は再び、本堂の床に突っ伏してしまいました。
どうやら、柄杓の中にいた蠢くものの仕業のようです。そして聡明な和尚は、その正体が何であるのかを痛みの中ではっきりと悟りました。
「ああ、あの時の大蛇・・・」
あれほどの大蛇です。妖術の類が使えても何ら不思議はありません。あの大蛇が自分の姿を小さく変えて、口の中で暴れているのです。和尚が何もしていないときにも痛みは収まってはいないのですが、大蛇の嫌いな読経を和尚が始めると、特に激しく暴れるようです。和尚は自分の読経に周りの木々をなぎ倒していた、あの時の大蛇の様子を思い浮かべていました。
「さても、厄介なこと・・・」
和尚は、今度は大きく、溜息をつきました。
続きは次回。
それはこの世のものとは思えない、驚くほど大きな蛇でした。その大蛇が鎌首をもたげ、人の子を食らおうとしていたのです。ちろちろと長い舌を動かす大蛇に、子供は腰をぬかし、ひざをがくがくと震わせています。
和尚は子供をかばうように間に割って入ると、読経を始めました。蛇という生き物は仏様の使いであるものと、災厄をもたらすもののふたつに分けられると言われています。それを知っていた和尚は、経を読むことで、この大蛇がどちらのものであるのか見極めようとしたのです。
和尚の読経を聞くと、大蛇は苦しそうに、もたげていた鎌首を左右に振りはじめました。どうやらこの大蛇、災厄をもたらすもののようです。和尚は読経を続けます。尻尾の方も振り回し始め、大蛇は周りの木々をなぎ倒していきます。大蛇はあらゆるものを蹴散らし、そのたびにその破片が和尚へ向けて飛んでいくのですが、不思議と和尚には、そして和尚の影に隠れた子供にも、ひとつも当たりません。そしてしばらくすると、大蛇はぐったりと死んだようになりました。
その様子に和尚は読経をやめると、大蛇に向けて話しかけました。
「すまぬが、この子は見逃してやっておくれ」
静かに、諭すように。それでいて有無を言わせない強い口調でした。大蛇は、気味の悪い黄色い目をどろりと開き、力なき小さな声で、
「おのれ、いつの日にか、仇なさん・・・」
そう告げると、大蛇はずるずると森の奥に消えてしまいました。
和尚はひとつ、小さな溜息をつくと、子供の方を振り返りました。そして優しい声で
「もう、大丈夫」
と微笑みかけました。
子供は余程怖かったのでしょう。また、ようやく安心したのでしょう。和尚の笑顔に大声をあげて泣き始めました。
和尚は子供を連れて村に帰りました。この子供は某という、村に住む男の息子でした。村でも評判の腕白小僧です。この日も親の目を盗んで、森まで遊びに行っていたとのことでした。某は何度も何度も頭を下げ、泣きながら礼を言いました。子供は既に泣き止んでいたのですが、この某に頭を叩かれて、また泣き出してしまいました。
和尚は某の家を後にし、寺に戻りました。
続きは次回。
六代目吉松 あらため、 佐草奈美 です。
7作目です。
歯に巣食う蛇の話
佐草 奈美
昔のことのお話です。都から少し離れた小さな村に、姿麗しき若い和尚がおりました。この村には、小さいけれども由緒の正しい寺がひとつあったのですが、この和尚はそこの住職として勤めておりました。この和尚、余程厳しい修行を積んできたのか、若いのに大層しっかりしておりました。分別があり、おまけに眉目秀麗ときていますので、村人達は、由緒正しき寺と同じくらいに、この和尚の存在を誇りに思っておりました。
ある日の朝のことです。この和尚が勤行を終えて、寺に帰ろうとしておりました。左手に森を横たえる街道、寺まではあと少しです。そのときのことです。その森の奥の方で小さな悲鳴が聞こえてきました。どうやら子供のようです。和尚は道を外れると、草を掻き分け、悲鳴の聞こえた方角へと足を進ませました。
厳しい修行の成果とでも言いましょうか。和尚は道なき森の中を颯爽と進みます。それでいて伸びきった草木をいたわるかのようですので、和尚の歩いた跡に、踏みにじられた道は残っておりませんでした。
程なく、和尚はある場所にたどり着きます。
森のくぼみのようになった、そこだけ木々が避けるように生えているところ、そこで和尚は恐ろしい生き物を目にしたのです。
続きは次回。
六代目吉松 あらため 佐草奈美 です。
以前アップした「消してください」の続編というか、裏ストーリーというか。
「もうひとりの自分」目線の作品です。
即興で作ってみたのですが、なかなか楽しい作業でした。
因果関係を考えながら、
前作中における物理的なできごとをなるべく同じくしつつ、
主人公の心理状態を対比的に描こうと試みました。
前作あっての本作、ですが、
本作のみでも成立するよう心がけました。
イメージを膨らませつつ、前作との整合性を考える作業は、
何か、右脳と左脳が交互に働いているようで、
脳トレ的にも気持ちの良いものでした。
ちなみに、ラストをまたホラーっぽくしたのは、
書き上げた日が暑かったので。
涼しければハッピーエンドだったかも知れません。
※「佐草奈美 小説書き終わり」のカテゴリに、「メッセージ」のウェブページ(全話連続版)がアップされています(携帯サイトからの場合、アクセスできない場合があります)。
「違いますよ、補佐」
後輩が私に微笑みます。「補佐」とは私の会社での役職。正式には課長補佐なのですが、長いので会社のみんなはそう呼びます。
電車のドアが開きます。乗客の列は、否応なく先頭の私を車内へ押し込みます。ふわふわとした足取りの私をすばやく誘導し、後輩は私を座席に運びます。彼自身は座ることなく、私の座席の前のつり革を握っています。
何事もなかったように、電車は滑り出します。何事もなかったように、乗客たちはそれぞれの世界に入ります。窮屈そうに新聞を開く人。文庫本を取り出す人。ヘッドホンで音楽を楽しむ人。
あっけにとられたような表情で、私は人々を眺めていました。でも、誰も私のことを気にする様子はありません。それは目の前に立つ後輩も同じ。手帳を広げ、熱心に今日の予定をチェックしています。
あの男を突き落とした私・・・。
あの男を「消した」私・・・。
大騒ぎになるはずなのに。
どうして何もなかったように、電車は動いているのでしょう。
どうして何もなかったように、乗客たちは私に目もくれないのでしょう。
どうして何もなかったように、後輩は私に接しているのでしょう。
あの時間は、切り取られてしまったのでしょうか。
あの男は、どうなってしまったのでしょうか。
私は、何もしていないのでしょうか。
普段通りに走る電車は、川を越える鉄橋に差し掛かります。車輪は甲高い、リズミカルな音を響かせます。その音は、状況が飲み込めないでいる私の気持ちを、少し高揚させてくれるものでした。
私は・・・勝ったということでしょうか。
車窓に映る川面は、幾重にも光を屈折させて輝いています。川底に潜む、不潔な堆積物を感じさせないまばゆさ。自然、目を細める私に、何とも形容しがたい穏やかさが降り注いでいるようでした。
パタン。
私の前で手帳を閉じる音が小さく響きます。予定チェックを終えた後輩が語りかけてきました。
「あ、そうだ。・・・だから、間違ってますよ、補佐」
彼の笑顔に私は応えます。
車窓の景色から目を外し、
つい今しがたまで、あの男がしていたように、悠然と。
だって、私こそが、「私」なのだから。
「ん?何が違うのかね」
「さっきの流行語の話。ほら、これですよ」
そう言って後輩は、彼の頭のそばにぶら下がっている電車の中吊り広告を指差しました。そこには白地に赤い文字で、こう書いてありました。
ヨクモ消シテクレタナ。
了。
ありがとうございました。
落ち着いた様子で新聞を眺めるあの男。そして、悠然とあのメッセージを後輩に告げるのです。
「きみ、この言葉を知っていますか。『この人、消してください』・・・これ、よくはやっているみたいだね」
男は新聞を指差して後輩に話しかけました。後輩は新聞を覗き込みます。
「え、この人、消してください・・・」
この言葉に、全身の血が泡立ち、一気に頭に上っていくのを感じました。メッセージは、ついにあの男自身の口から私に向けて発せられたのです。最早一刻の猶予もないと悟った私は、男に向かって猛然と突進しました。そして、自分の縄張りの外へと追い出すように、私は勢いよく、男の背中を押しました。
どんっ!
男の体はプラットホームから投げ出されていました。男が線路に落ちるのとどちらが早かったでしょう。私同様、猛然と突進してきた電車に、男の体は砕かれていきました。
やってしまった・・・。
人の命を・・・。
いや、こうしなきゃ、私の方が・・・。
いずれにしても、もうおしまいだ・・・。
おしまいだ・・・。
おしまいだ・・・。
おしまいだ・・・。
続きは次回。
娘の結婚を1ヶ月前に控えたある日のことです。私はいつもより少し早起きをしました。
いつも通りに支度をします。いつも通りに駅に向かいます。いつも通りに売店で新聞を購入します。すべてのことがいつも通りなのですが、スタートが早かったのでホームに立つ時間はいつもより早くなりました。
私がいつも乗っている電車より一本早いのが、出発したところでした。電車が乗客を吸い込んだ後のホームには、束の間の静寂が訪れている・・・はずでした。
私の目に飛び込んできた、ひとりホームに立つ男。それは、まぎれもなく、あの男。誰もいないはずのホームに、ひとりたたずんでいたのです。
私は慌てて身を隠しました。自動販売機の影に隠れ、手にしていた新聞を広げました。あの男も新聞を広げています。私と違って悠々と、社会面を眺めています。
と、私を呼ぶ声がしました。29歳になる好青年、同じ会社の後輩です。思わず応えてしまいそうになったところを、私は広げていた新聞を顔に押し付けて抑えました。後輩の声と視線は、間違いなくあの男に向けられていたからです。
「今日は少し出遅れました」
少し息の上がった声で話す後輩。それに笑顔で応えるあの男。そして、それを隠れ見る私。
・・・何なのだ、この構図は・・・。
ホームに列ができはじめました。あっという間のことです。人であふれたホームは、私と彼らとのむなしい構図を中和してくれました。
列の先頭。
頼もしい後輩の存在。
座席の確保に安堵したあの男の表情は、後ろの少し離れた位置に立つ私にも容易に想像できるものでした。私が同じ立場なら、きっとするに違いない表情だから。
続きは次回。
文字だけではなくなってきました。
ある日のことです。信号待ちをしている私の後ろに2人連れの女子高生がいました。それとなく聞こえてくる会話の内容からそうとわかります。私のような中年男性にとって、彼女達の若さは羨望の的。だからといって振り返っては気持ち悪がられるだけです。耳だけに自然、集中力が高まります。
「この人、消してください。きゃはは」
テレビタレントか何かを真似て言ったような口ぶりでしたが、その言葉は、聞き耳を立てていた私を名指ししているかのようでした。
夜、会社から帰宅すると久しぶりに娘が帰ってきていました。まだ彼女は私の娘です。結婚したわけではありません。でも現在は婚約者と同棲中。だから「久しぶりに帰ってきていた」というわけなのです。もう嫁いでしまったようなもの、なのでしょうが、ウエディングドレス姿の彼女を見るまでは、絶対に私の娘です。
そう、ウエディングドレス姿を見るまでは・・・消されてなんてたまるものか。
娘の姿にそんなことを思った私は、昼間に聞いた女子高生の言葉を真似て、あのメッセージを口にしました。そうすることで、何かもやもやとしたものが払拭してしまえる気がしたのです。メッセージを、流行語か何かに貶めることができそうな気がしたのです。
私の言葉に、娘はきょとんとした顔をしました。もちろん、娘に向けて言ったわけではなかったのですが、娘の耳に届いてしまったようです。
「なにそれ、流行語?まあ、最近テレビ見ていないからよくわからないけど・・・。『この人、消してください!』・・・こんな感じ?」
彼女はおどけて私を指差し、少し太い声で言いました。
「おい、よしなさい。縁起でもない」
私は笑って彼女をたしなめました。引きつった笑顔でも、動揺を見せない唯一の手段でした。
「だって、お父さんが先に言ったんでしょ」
そう言いながら彼女は自分の部屋に行ってしまいました。どうやら、結婚に際して自分の荷物を取りに帰ってきていたようです。荷物を持ち出すことで、娘は自分の部屋の空虚感が増すということに気が付いていないのでしょう。幸せいっぱいの今の彼女に気付かせるなんて到底無理なのでしょうが。
私は、もやもやが払拭されるどころか、より陰鬱な気持ちになってしまい、小さな溜息を漏らしていました。
それから先も、このメッセージをよく見るようになりました。落書きはもちろん、新聞、雑誌。道行く人の会話の中で。私は気が触れてしまいそうでした。
ドッペルゲンガー・・・。
同じ顔を持つ、もうひとりの私。
それを見たものは・・・「消される」運命。
それを暗示する・・・メッセージ。
続きは次回。
別の日のことです。取引先から会社に帰る途中のこと。信号待ちをしている私の目に、飛び込んできたものがありました。
「この人、消してください」
あの男の存在とメッセージ。頭から離れないままに何日かを過ごしてきた私に、突如として現れた驚愕でした。電柱の張り紙、下のほうが少し破けていましたが、はっきりと読み取れる文字でした。拍動は以前にも増して高鳴ります。キョロキョロと、私はあたりを見回しました。どこかに、またあの男が・・・。私は慌ててその場を立ち去りました。
仕事を終えて、私は居酒屋で会社の同僚と酒を飲みました。私から誘いました。自分ひとりでは、とても抱えきれない気持ちになって、この話を誰かにしたかったのです。でも、酒の勢いを借りても、あの男の話はできませんでした。とても信じてもらえるとは思えませんでした。私は今日見つけたメッセージの話だけをして、彼にも見に行ってくるように言いました。
この同僚の仕事は内勤中心なので、実際に見に行けたのは1週間ほどしてからでした。町の清掃員か誰かが、消したり、はがしたりしたような跡があっただけだったそうです。やはりあのメッセージは、私だけに発信されている、私はそう思いました。
2週間ぐらいあとのことです。割と繁華な地方都市への出張がありました。あの男とメッセージのことは頭を離れたことがありませんでしたが、そのことばかりに気を取られていては仕事になりません。住宅ローン、リストラ・・・。うかうかしていては、それこそ今の生活が消えてしまいます。晩酌を減らされても、小遣いを減らされても、私には守るべきものがあるのです。
その日の夜、私は減らされた晩酌を補うかのように酒を飲みました。取引先のおごりです。財布を気兼ねすることはありません。2次会まで終えて散会となり、少し千鳥足で私はホテルに向かいました。
途中、ホテルまでは間に合わないと、公衆トイレに立ち寄りました。そこで、私の酔いを醒ます事件が起きました。
「この人、消してください」
あのメッセージです。出張先まで追いかけてきたのです。背筋に走る悪寒とともに、私は涙があふれてきました。
私が、何をしたというのだ・・・。
私に、どうしろというのだ・・・。
私は、そのメッセージを消そうと試みました。以前見たものよりは随分と小さなものだったので、消せそうな気がしたのです。
お前の方こそ、消えてしまえ・・・。
泣きじゃくりながら、私はハンカチで壁をこすりました。メッセージは少し薄くなってきたのですが、他のトイレ利用者が入ってきて、私は作業の手を止めました。私の後姿を追いかける奇異の目を感じながら、逃げるようにホテルに向かいました。
メッセージはすべて筆跡が異なっています。荒々しく、なぐり書きをしたようなものから、弱々しいものまで。まるで、みんなから消えろといわれているようです。
続きは次回。
六代目吉松 あらため、またまた 佐草奈美 です。
6作目です。
メッセージ
佐草 奈美
私が最初にその存在に気が付いたのは、とある公園の公衆トイレでした。
外回りの仕事中、腹痛になり、私は公衆トイレを探していました。街の公園の大きな樹の向こう側、見つけたトイレは遠目から見ても、あまりきれいではなかったのですが、躊躇している余裕はありませんでした。
一目散に駆け込もうとしたそのとき、私の前を悠然と進む男がいました。私と同じようにトイレに向かうこの男を、私は追い抜こうとしました。後姿にこの男を見ても、それほど焦っている様子はなかったですし、私自身、先を譲るゆとりはありませんでした。
しかし、結果的に私はこの男に先を譲りました。譲らざるを得なかったのです。
この男を追い抜こうと近づいたとき、私はおかしな気分に襲われました。何か、追い抜いてはいけない、大変なものが目の前にある、と。
・・・同じ髪型。
・・・同じスーツ。
・・・同じ鞄。
・・・同じ靴。
悠然と進むように見えたこの男も、近づくにつれ、それなりに焦っていることがわかりました。それは、余裕がないことを他の人に悟られないように必死な、私の姿そのものでした。誰に見られているわけでもないのに、他人の目を殊更に意識する気の小さな性格。なのにどこか抜けている性格。事実、「私」という視線には全く気が付いていません。
この男をトイレまで「見送る」と、私は大きな樹の影に隠れました。恐怖と緊張は腹痛を収束させていました。ならばその場を立ち去ってよかったのですが、私は確認せずにはいられないという衝動に支配されていました。私は男がトイレから出てくるのを隠れて待ち続けました。
この男がトイレから、そして、トイレのある公園から立ち去ったのを確認して、私はトイレに駆け込みました。この男から逃れるように、慌てて個室の鍵を閉めました。拍動は、かつてない速さで私の体内を駆け巡っています。嫌な汗が、止まることなく流れます。
・・・同じ体型。
・・・同じネクタイ。
・・・同じ眼鏡。
・・・そして、
・・・同じ顔。
怖いもの見たさ、とも言うべき衝動に支配されて、見た「怖いもの」。気持ちの整理がつかない私は、助けを求めるように個室の中を見回しました。そして、あのメッセージを発見したのです。
「この人、消してください」
落書きだらけのトイレ、その中のひとつに過ぎないはずなのに。
私は、自分の喉元に鋭利な刃物を突きつけられたように感じました。
続きは次回。
六代目吉松 あらため 佐草奈美 です。
毎日暑いですし、ちょっとホラーっぽいものを。
中学生だったか、高校生だったか、
「ドッペルゲンガー」というものを知って、
もうひとりの自分というフレーズに「ぞくっ」ときて、イメージが膨らんで、
こんな作品になりました。
・・・子供の頃から妄想族です(笑)。
作の冒頭でも書いたように、はじめての作品だったのですが、
読み返して、ブログとしてアップしていくうちに、
この作中の「もうひとりの自分」目線の作品もありかな、と。
今も妄想は止まるところを知らず、突き進むばかりです(笑)。
※「佐草奈美 小説書き終わり」のカテゴリに、「消してください」のウェブページ(全話連続版)がアップされています(携帯サイトからの場合、アクセスできない場合があります)。
新聞の社会面、私はまたあの言葉を見つけました。
「この人、消してください」
私は、この頼もしい助っ人に、この言葉を知っているか尋ねて見ることにしました。
「きみ、この言葉を知っていますか。『この人、消してください』・・・これ、よくはやっているみたいだね」
私は新聞を指差して彼に話しかけました。彼は新聞を覗き込みます。
「え、この人、消してください・・・」
彼がそう言ったときです。
どんっ!
私の体はプラットホームから投げ出されていました。私の後ろの誰かが、私の背中を押したのです。私が線路に落ちるのとどちらが早かったでしょう。私が乗るはずの電車は、私の体を砕いていきました。
最期に見たものがあります。それは私の背中を押した人の顔。まぎれもない、それは私自身の顔でした。彼の形相は必死で、それでいて、どこかほっとした様子でした。
「ドッペルゲンガー」・・・おそらくそうでしょう。
でも私、このとき初めて見たんですけど。
ああ、そうか。私は合点がいきました。彼の方が先に私を見たんだな。そのとき、私は気が付かなかったのでしょうね、彼の存在に。そして、おそらく彼にも届いていたのでしょう。
「この人、消してください」
というメッセージが。彼は私のドッペルゲンガーであると同時に、私も彼のドッペルゲンガーだったのですね。私を「消す」ことで、彼は生存することができる。そういうことだったのですね。
みなさんも、気をつけてくださいね。もしかしたら、もう見られてしまっているかも知れませんよ。
同じ顔を持つ、もう1人のあなたに。
了。
ありがとうございました。
娘の結婚を1ヵ月後に控えたある日のことです。私はいつものように仕事に向かう電車を待っていました。これから揺られること55分。座席を確保できるかどうかは死活問題です。大げさじゃないですよ。私だけじゃなく、みんな目の色変えて飛び込んでいきますからね。
今回は列の先頭。いい位置を確保しました。少し早起きをした甲斐があったというものです。電車の到着まで、まだしばらく時間があります。私は新聞を読みながら待つことにしました。
新聞の社会面に目を通そうとしたとき、私の名前を呼ぶ声が聞こえました。同じ会社の後輩です。彼はまだ若く29歳。なかなかの好青年です。下宿先の最寄駅が私と同じこの駅。ごくまれに同じ電車に乗ることもありますが、大体彼の方は1本早い電車に乗って通勤しているようです。
「今日は少し出遅れました」
彼は笑いながらそう言いました。といっても列の先頭である私の横に来るわけですから、おそらく彼としては1本早い、いつもの電車に乗るつもりだったのでしょう。少し彼の息が上がっていることからもわかります。
私たちの後ろに列ができはじめました。あっという間です。ホームは一杯になりました。こんなとき、ちょっとした優越感を味わうことができます。「この列の何人目までが座れるのかな。ま、私は大丈夫だろうけど」それと同時に不安もよぎります。「割り込まれたりしないだろうか」
まあ、今回は大丈夫。私の隣には若い助っ人がいます。彼は学生時代、サッカーをやっていたということで、なかなか俊敏な動きをします。体育会系のタテ社会にも慣れていますから、まずは先輩である私の席を確保してくれることでしょう。私の優越感は安堵感へと変わり、落ち着いて新聞に目を向けました。
続きは次回。
若い人たちの流行語、私にそう確信させる事件が起きました。いつもの交差点での信号待ちのときです。私の後ろに2人連れの女子高生がいました。少し振り向いたら、今どきのって感じの2人でした。援助交際なんて大それたこと、性格的にも経済的にも私にはできません。彼女たち女子高生は眺めるだけの存在です。残念ながら、今回は後ろに立たれてそれもかないません。でも、ついそちらに気がいってしまう。そのときです。
「この人、消してください。きゃはは」
テレビか何かでタレントが言っているのでしょう。それを真似て言った感じでした。
その日の夜、久しぶりに娘が帰ってきていました。もうすぐ結婚する、とは言いましたが、現在は婚約者と同棲中。親の立場から言えば、もう嫁がせたようなものです。私は彼女に聞いてみました。
「この人、消してください。こんな物騒な言葉が若い人たちの間で流行しているのかい?」
娘はきょとんとした顔をしています。彼女は26歳、私から見る限り、若い世代だと思っていたのですが。彼女はこう応えました。
「ふうん、最近テレビ見ていないからよくわからないけど・・・。『この人、消してください!』・・・こんな感じ?」
彼女はおどけて私を指差し、少し太い声で言いました。
「おい、よしなさい。縁起でもない」
私は笑いながら彼女をたしなめました。娘が帰ってくると家の中が明るくなります。いっそのこと、あんなアパート引き払わせて、同居することを結婚の条件にしてやろうかしらん。
「だって、お父さんが先に言ったんでしょ」
そう言いながら彼女は自分の部屋に行ってしまいました。どうやら、結婚に際して自分の荷物を取りに帰ってきていたようです。
帰ってくるのは嬉しいのですが、そのたびに娘の面影が薄れていくのです。荷物を奪われた娘の部屋は、以前より確実に「広く」なってしまいました。そんな空虚感を吐き出すように、私は小さな溜息を漏らしていました。
それから先も、この言葉をよく見るようになりました。落書きはもちろん、新聞、雑誌。よっぽど流行しているのでしょう。道行く人の会話の中で耳にすることもしばしばでした。
ただの流行語だとわかってしまうと気にも留めなくなります。こんな言葉が流行する時代、殺伐とした世の中だな、とは感じますが、流行語なんてもともと大した意味を持たないものですからね。私にとって、もう「事件」ではなくなってしまいました。
続きは次回。
別の日のことです。取引先から会社に帰る途中のことです。信号待ちをしている私の目に、飛び込んできたものがありました。
「この人、消してください」
それは電柱の張り紙、下のほうは少し破けていました。でも、これもまた誰のことだかわかりません。
あっ、もしかしたらこれ、暗号でしょうか。「ヒットマン」稼業の人が見ればわかるのかも。スパイ映画の世界ですね。私は少しドキドキしました。・・・腕力にまるで自信のない私に、「ヒットマン」をお願いする奇特な人、いるわけないのですけど。
仕事を終えて、私は居酒屋で会社の同僚と酒を飲みました。この話を誰かにしたかったのです。私が見た張り紙は会社から程近い場所だったので、彼にも見に行ってくるように言いました。
私と違って彼は内勤中心なので、実際に見に行けたのは1週間ほどしてから。残念ながらなかったそうです。町の清掃員か誰かが、消したり、はがしたりしたような跡はあったそうですけどね。
次にこの落書きに気が付いたのは2週間ぐらいあとのことです。場所はまた公衆トイレ、でも最初に見たトイレとは全く別の場所ですよ。出張先でしたから。割と繁華な駅前にある公衆トイレに、小さく書いてありました。ほとんどの人が気付かないんじゃないでしょうか。それぐらい小さく、それこそ「消えてしまいそうな」文字でした。前に同じ落書きを見た私だから気が付いたようなものですよ。
あ、そうそうこの落書き、それぞれ筆跡が全く違うんです。なぐり書きをしたようなものから、弱々しいものまで。いろんな人が書いているんでしょうかね。もしかして若い人たちの間で流行している言葉なんでしょうか。だとしたら嫌ですね。
続きは次回。
六代目吉松 あらため、久々の 佐草奈美 です。
5作目です。実はこれ、処女作だったりします。
消してください
佐草 奈美
「ドッペルゲンガー」という言葉をご存知ですか。ドイツ人?・・・あはは、そんな感じですね。確かにドイツ語ですから。この世界には自分にそっくりなもう1人の自分がいる。それを「ドッペルゲンガー」って呼ぶそうですよ。これだけ広い世界ですから、いても不思議はないのかも知れませんね。顔かたち、性格まで同じ。考えることまで同じなんでしょうから、オセロゲームなんて一緒にしたら面白そうですね。いつまで経っても勝負がつかない。趣味も一緒だとすると、好きになる女性のタイプも・・・。おやおや、私も齢五十を越えて色気づいていてはいけません。
のんきな話ばかりしてしまいました。でも、実は怖いんですよ、これ。見た人は数日のうちに必ず死んじゃうんだそうです。
私は中堅の商社に勤める平凡なサラリーマン。役職は課長補佐。まあ、いわゆる中間管理職ですね。満員電車通勤、住宅ローン、リストラ・・・どれも自分の身にまつわることですね。楽しみといえば晩酌ぐらい。最近の不景気ですっかり数を減らされてますけど。
そう、娘がもうすぐ結婚します。これについては楽しみというより、複雑ですね。あとは・・・、これといって特筆するようなこともないです、ええ。
こんな私に事件が起きました。ある公園の公衆トイレを使ったときのことなんです。いきなり汚い話ですみません。こういうトイレってよくありますよね、落書き。卑猥なものや差別的なものや。あんなの書く人の気が知れませんね。でも、眺めている分にはちょっと愉しかったりします。不謹慎ですけど、ほら、基本的にトイレにいるとき、目は退屈ですから。
いろんな落書きに目をやっているうちに、ふと目に留まったものがありました。
「この人、消してください」
少し驚きました。これはいけませんね。イジメか何かでしょうか。でも、「この人」と書いてあるだけでは誰だかわかりません。いいかげんなものですよね。まあ、落書きですし、当然ですか。目には留まりましたけど、気にかかるほどのことではありませんでした。
続きは次回。
六代目吉松 あらため 佐草奈美 です。
素材になったのは子供の頃の記憶です。
当たり前ですが、世界にはたくさんの人がいる。
でも、私にはそれが理解できず。
人の多さ、世界の広さが信じられなかった、認識できなかった私は、
「本当に、こんなにたくさん人がいるのか」
という発想から、
「本当は、いないんじゃないか」
という考えになり、
「いる、と思うからいるのであって」
更には、
「自分の意識を変えれば、全ては無ではないか」
という結論に至りました。
理解の範疇を超えると否定に走る、というちょっと悪いクセですね。
それと、「妄想力」の豊かさですね(笑)。
この考えを具体的に、小説っぽくしてみました。
いわゆるオムニバスの要素込みで。
あなたが見ているのは、触れているのは、全て虚構だと。
この世の中なんて、人生なんて、実在しないものだと。
読者の皆様を、「脳と神経組織」だけにしてしまいました。
大変失礼いたしましたっ!
※「佐草奈美 小説書き終わり」のカテゴリに、「素晴らしき人生」のウェブページ(全話連続版)がアップされています(携帯サイトからの場合、アクセスできない場合があります)。
人類は、過去の放漫生活の清算を迫られる結果となった。これまで想像もつかなかった自然災害が、否応なしに人々の生命を奪う。人類が食糧としてきた動植物を死滅させ、更にはその新たな生育を阻害し、飢饉を生む。環境は払いきれない額の請求書を突きつけてくる。人類は、その大半の数の生命をもって支払うこととなった。
彼の虚無感は現実になった。
生きることへの執着は生命体共通のもの。生き残ったわずかな人々は、これまで嘲ってきた彼に救いの手を求めた。あまりにも急激な変貌を遂げた地球環境に、順応できる自分達のカラダを求めた。
そして彼の研究は、その期待に応える結果を得ていた。
キミは、マダ。
そのカラダが、生身のモノだと思ってイルのカイ?
キミは、マダ。
その目にシテイル現実が、本当のモノだと思ってイルのカイ?
彼の研究所に救いの手を求める人々が、再び彼の研究所から出てくることはなかった。それでも、後を絶たない人の列。研究所を出たところで、どうせこの地上に満足に住める環境などないのだから。
ココマデ説明スレバ、気ガ付イタカイ・・・?
マダ・・・!?
彼の研究成果。それは、人に、人の体を捨てさせること。
脳と神経組織を摘出し、培養液の中に。抜き出された神経組織はコンピュータに接合。コンピュータには、彼が収集した「あらゆる人生における価値観」があり、神経組織を通して「人生」を伝達。視覚・嗅覚・痛覚・・・。すべてはこの機械によって与えられ、人類は「人生」を体感する。
マダ、ワカラナイノ?
キミダヨ、キミ。今コノ小説ヲ読ンデイル。
キミノ、今見テイル現実ハ、スベテ、ボクガ与エテイル、トイウコトダヨ!
「ウソだ。こんなにはっきりした感覚と、体が備わっている!」
「子供の頃の記憶も、ちゃんとある!」
今、ソウ思ッタデショ。
・・・ダカラ、ソレモスベテ、ボクガ与エテイルノ。
キミノ、ソノ人生ハ、ボクガ作ッタノ!
彼、イヤ、ボクヲ作ッテクレタ博士ハ、偉大ダネ。
キミノヨウナ、環境ヲ破壊シ続ケタ人々モ、助ケタヨ。
「素晴らしき人生」ヲ、提供シタヨ。
サテ、ト・・・。
生き残った人類のために摘出手術を行ない続けた彼は、培養液の入ったガラスケースを眺めていた。この施術は、彼の研究成果である以上、彼以外にはできない。自然、彼が「生身のカラダ」を持つ最後の人類となったのだ。
彼はコンピュータに向かう。悲劇の主人公、だとか、愛されたいという欲望、だとか人生を作り出す要素を入力し続けてきたコンピュータに。
ただ、ひとつだけ。ひとつだけ彼が入力していない大切な要素があった。彼は老齢とは思えないしなやかな手つきで、最後の要素を入力する。
ニンゲンニハ、真実ヲ知リタイトイウ、欲望ガアル。
彼は、ガラスケースであふれた研究室を出た。自然の猛威は、彼の生身のカラダを容赦なく襲った。
彼のいなくなった研究室では、コンピュータが人生を与え続けていた。
サテ、次ハ、キミヲ「大富豪」ニデモ、シテアゲヨウカ。
了。
ありがとうございました。
彼は科学者だった。
この手の職業は評価が二極化しやすい。最大の敬意をもって扱われる者と気ちがい扱いされるもの。彼の場合は後者の方。地上において、彼の研究を理解するものは誰もいなかった。家族においても例外ではなく・・・というより、生活力のない彼に家庭を築くことはできなかった。ただ、親から受け継いだ資産がいくばくかあり、彼の生命と研究費を支えていたため、彼は「気ちがい」を続けることができた。
彼の研究テーマは地球環境。二酸化炭素の排出による地球温暖化と、それに伴う様々な地球環境の変化。
海水面の上昇により水没が危惧される国。
マラリアを媒介する蚊が大量発生している地域。
彼だけではなく、この問題は世界を挙げてのテーマだった。いずれこの星は人類を受け入れなくなる。
例えば戦争のような、大きなひとつのハプニングに起因したものではなく、私達の毎日の生活が原因。全人類が生活のあり方を考え直さない限り、最悪の、不都合な結末は回避できないとされていた。
研究テーマだけ見れば、彼は気ちがい扱いされるものではなかった。だが、皆が彼に敬意を払わない理由は、この先にあった。彼は手法が他の科学者と異なっていたのだ。
環境破壊を抑止するための方策を論じている他の科学者・研究者達を尻目に、彼は破壊されていく環境でも生きられる術を研究していた。新しい人類とでも言おうか。ダーウィンの進化論よろしく、この劣悪化する環境でも人は生きられると考えていた。ただ、その速度が性急であるだけに術が要る。そうだ。人為的に、強制的に進化すれば人は必ず生きられるのだ。
彼の理論は受け入れられるはずもなく、やはり、彼の扱いは気ちがいだった。
弁解ではないが、彼だって最初からこのような考えをしていたわけではなかった。人類に、生活スタイルの変化を訴え続けることに虚無感を感じたのだ。
まるで、総論賛成、各論反対。
地球の危機は理解しているくせに、他人事のように今まで通りの生活を続ける人々。二酸化炭素の排出量は減少どころか増える一方。 国家間の取り決めをしようとしても、経済発展への影響を懸念してか調印すら拒む国もある。世間体的に調印したところで、何ら成果を出さない国も。そんな身勝手な人種によって、罪のない人々の生活が脅かされる。それならば、我々自身が生き残れる姿になるより他はない。それならば・・・。
ここまで聞けばドウダロウ?
彼の研究を、奇行とだけ判断してよいものダロウカ。
・・・彼の研究は、人類の存続を真剣に考えたものだった。
続きは次回。
35歳になった彼は結婚した。彼の両親と同じ、職場結婚だった。披露宴の席で、涙を禁じえない彼の母親。会社をリタイアし、陶芸を始めた父親(何故か席上に作品を持ってきていた)。彼よりも4年早く結婚し、お腹の中に二人目のいる妹。今の自分の原点がここにある。主役席に鎮座し、彼はそう感じていた。そして、生涯を共にする妻への思いに、新しく形成する自分の家族への決意に、彼は口角を真一文字に結んだ。
晴れの日の決意が終生続いたかというと、そうではなかったが、彼の築いた家庭は平穏だった。
穏やかであることと、愛情があふれていることは同義ではなく、結婚して15年、彼の妻は結婚当初の面影を粉砕するほど肥え太り、彼に異性としての魅力を醸し出すことはなくなっていた。
ある日、彼は街で目も覚めるような美人に出くわした。端整な顔と、若さでは太刀打ちできない円熟の魅力。2人の娘を連れていたことから既婚だと判断できたが、それは彼女と築く家庭生活を、かえって生々しく妄想させた。自分の妻にはカケラもない色香。男であればあのような女性を妻としたいものだ。でも、そんな本能的な感情を抑止させるものが彼にはあった。
自分程度の男では、相手にもされないに違いないという、謙虚さ・・・。
自分は結婚しているのだし、揉めごとにでもなったら大変だという、慎重さ・・・。
彼の家庭の平穏は、このふたつによって、つつがなく守られていた。
病気らしい病気はせず、彼は天寿をまっとうした。社会的に輝かしい人生ではなかった。その意味では親の期待には沿えなかった。
でも、元気で健康。そうした意味では、親に心配をかけさせない、孝行息子だった。
後悔や心残りはたくさんあったはずだが、子供や孫達に囲まれて迎える旅立ちに、全ては掻き消えた。薄れていく視界の中、自分よりはもうしばらくこの世にいそうな妻の生命力を確認し、安堵感を覚えた。
棺の中、彼の好きだった地球儀が収められた。社会科の授業中、世界の広さに憧れた少年時代の彼。まるでその頃に戻ったかのような、彼の穏やかな寝顔とともに。
ニンゲンニハ、平凡コソ一番デアルトイウ考エ方ガアル。
ニンゲンニトッテ大切ナモノニ、健康ガアル。
ソシテ・・・。
ニンゲンハ、関連性ガアルトイウコトニ、心地良サヲ感ジル。
続きは次回。
特筆すべき点もない首都圏近郊の大学を卒業し、彼は社会人になった。就職の氷河期、と評される時期ではあったが、運良く彼は就職浪人を免れた。あまり上を望まず、分相応な会社を選んだ彼の「謙虚な姿勢」もあったのだろう。
毎日は淡々と過ぎていく。勤める会社においても頭角を示すことはなく、だからといってお荷物扱いされるわけでもなく。
就業時間が終わると、彼は時々繁華街に繰り出した。酒は好きな方だった。夜の街、夜の店には欠かせない、女性も嫌いではなかった。
行きつけのスナックに、お気に入りの女性がいた。目元のはっきりした、きれいな女性だった。彼にしては積極的にアプローチした方だったが、全く相手にされなかった。しばらくしてママに聞いたのだが、何でも彼女は演劇の世界で活躍したいとかで、男性には全くと言って良いほど振り向かないのだとか。
それを先に言ってくれよ、と思わないでもない彼だったが、口に出すことはなく、そのスナックから足は遠のいた。しばらくして、彼女が病気だか何だかでそのスナックを辞めてしまったのも理由のひとつだった。
次の行きつけを探すべく街を歩いていて、彼は怖い事件を体験した。といっても当事者という立場ではない。極めて安全な、傍観者の立場でだ。
パトカーや救急車のサイレンが突き刺さるように響く。無視できるほどの達観者ではない彼は、吸い寄せられるように人だかりに近づく。ざわつく人の声から得た情報では、男性客が店員に殺害されたのだという。
目の当たりにしたわけではない。だが彼にとっては大事件だ。自分が同じ時間、同じ繁華街にいたことは、彼にとって興奮だった。友人、会社の同僚、取引先。まだ伝えていない相手を見つけると、何故か得意げに話す彼だった。夜の街の怖さ、酒の怖さも付け加え、死地から帰還した兵士のように。
彼が懸命に伝えた恐怖は本心からだったようで、やや頻度が増していた彼の夜遊びは、事件以降沈静化した。
続きは次回。
彼は、平凡な家庭に生まれた。父親は中堅電気工事会社のサラリーマン。母親も同じ会社に勤務していた。いわゆる職場結婚。ただ、彼に物心がついた頃には母は専業主婦であり、彼自身には自分の母親が父親と同じ職場に勤めていたという記憶はない。
彼が3歳くらいの頃であっただろうか。いや妹が生まれた後だから4歳か。彼の家族は引越をした。新築の分譲マンション。最寄の駅からは随分と遠い場所だった。彼の両親の、人生における大きな決断、だったのだろう。3LDKのこのマンションが、彼ら家族の新居であり、全財産の大半となった。新居の爽快感よりも、荷物を片付けた後、がらんどうとなったアパートの空虚感。幼かった彼の目に、「捨てられる」アパートが可哀想に映った。
新築、ということもあり、そのマンションには彼の家族と同じような世帯が多かった。母親は彼をピアノ教室に通わせた。自分の子に無限の可能性を感じる親の、当然の行為。それが近所の「ライバル」に触発された母親の正論だった。
残念ながら、彼は母親の期待に沿えなかった。ピアノに向かう時間が苦痛だった。自分の教室通いのためにパートまでしてくれている母親には申し訳なかったが、適性のなさは如何ともし難かった。1年という時間の経過を待たず、彼はピアノ教室を辞めた。
子供の教育に熱心だった母親ではあったが、さすがに私立進学校に通わせる予算はなかったらしく、彼は公立の小学校に入学した。成績は真ん中より少し上程度。得意科目の社会も、飛びぬけて良い成績というわけではなく、才能の片鱗を感じさせる程ではなかった。スポーツも得手とは言えず、体育の時間に俄然活躍するわけでもなかった。
地球儀を見るのが好きな、おとなしい子供だった。
彼には皆無だったピアノの才覚は、多少彼の妹の方にはあったらしく、母親のベクトルはそちらを向いていた。しかし、彼が中学に入ると、冷めていたと思われた母親の教育熱が復活。その矛先が彼に集中する。良い高校に進ませたい。良い大学に進ませたい。良い会社に勤めて欲しい。
父親は時折、熱中する母親を諭したが、返り討ちにあっていた。自分も勤めていたはずの中堅電気工事会社を否定し、彼を競争社会の勝ち組にしたいと力説する母親。こうした感情の背景には、自分達の買ったマンションの価格が急落していたこともあったのかも知れない。
それなりに頑張った彼だが、また期待には応えられなかった。
続きは次回。
夜。彼女が勤めるスナック。常連ばかりが集うこの店に、常連以外の客が来た。自称テレビの番組プロデューサー。夜の街にこういう男はよくいる。とても信じられたものではない。彼女も無論、この男の素性を信用したわけではない。が・・・酔いどれたこの男の言葉に心が揺さぶられた。
「きみは美人だが目がいけない。もっと細くて切れ長の瞳なら使ってやるのにね、ひひひっ」
この男がプロデューサーでもなんでもないことが判明したのは勘定のときであったが(財布を亡くしていた彼は名刺を差し出し、明日必ず払いに来るからとママに泣いて謝っていた)、それでも、彼女の耳からこの男の言葉が離れることはなかった。
数日後、彼女は美容整形病院にいた。愛らしく、大きな目。女性なら誰もがうらやむその「宝石」を、彼女は小さく削ぎ落とした。彼女は自分の顔にメスを入れた。消費者金融から借金をしてまで。
ある映画のエキストラ。彼女はいつものように「通行人A」を演じていた。劇団には体調不良でしばらく入院すると伝えてあったので、このエキストラは彼女にとって「復帰公演」だった。
主人公とその恋人が街中で口論するシーン。その大きな声に驚く周囲。エキストラの彼女は、もちろんその周囲にいたわけだが、彼女はここで冒険をした。
「皆さんは驚いた顔をしてくださーい」
カメラが回る前、使いっぱしりのスタッフにそう言われたのだが。
冒険は、彼女の表情だった。驚く、ではなく冷ややかに。冷たい視線で、その口論を見つめた。人前で恥ずかしくないのかしら、そんな風に。彼女は自分が得た切れ長の目を、この演技で使った。
冒険は、大きな宝島を見つける結果となった。ファインダーを覗き込む監督の目に、リアリティあふれる彼女の姿が飛び込んできた。格別の素材を見つけた。新進気鋭のこの監督はそう感じた。監督は彼女を呼びとめる。彼女のサクセスストーリーは、その幕を開けた。
そんな彼女も今や63歳。少女の折、彼女が憧れた女優とちょうど同じ年齢になっていた。世界的な映画女優として数々の演技賞を受賞した。彼女を見出した監督の求婚にも応えず、演技の道を貫いて今。生涯独身ではあったが、女優人生としては最高のもの。満足のいく半生を、彼女は、ふと振り返る。
「そうね。わたしにとってあの客は、まさしく神様だったわ」
人を射抜くような切れ長の瞳は、感謝するように遠くを見つめていた。
ニンゲンニトッテ、努力トハ、報ワレルモノデアル。
ニンゲンニトッテ、神トハ、突如トシテ舞イ降リルモノデアル。
続きは次回。
その女性は美しかった。
ただ、前述の彼女と違い「恋多き人生」ではなかった。というのも、この女性には男を寄せ付けないほどの大きな夢があった。世界を舞台に活躍する女優。彼女には、憧れを抱く銀幕のスターがいた。美しく、そして演技派。他の俳優を圧倒する存在感。彼女がその女優の存在に心を奪われたとき、その女優は既に60歳を超えていた。それでもなお放ち続けられる光に、彼女は魅せられた。
女優になりたい。彼女の決意は強く固まっていった。多分に洩れず、彼女の両親は猛反対。だが、彼女の強い決意は萎えることなく、彼女は単身、都会に出た。
とある劇団の門を叩き、彼女が舞台デビューしたのは21歳。高校を卒業すると同時に都会に出て、3年かけて手にした役柄だった。
舞台デビューとは書いたが、決して大きくない劇団の、それも端役。生計を立てるためのものにはなり得なかった。彼女は舞台稽古のかたわらでチケットを売り、夜はスナックでアルバイトをした。映画・テレビドラマのエキストラには片っ端から出演した。無論、セリフを与えられることなどはなく、「名もなき通行人」を演じ続けた。
美しいのになぜ?・・・そう思われる読者もあるかも知れない。確かに彼女は容姿に優れていた。道を歩けば振り返る男性も数多くいた。彼女を知る人に、彼女の容貌を否定するものはいなかった。しかしながら、だ。残念なことに、その美しさこそが彼女のチャンスを奪っていたのだ。見る人に強いインパクトを与えない、つまり彼女は端整すぎたのだ。
彼女の憧れる女優も美しく、整った顔立ちではあったが、少し唇が厚ぼったいのが特徴だった。他は非の打ちどころがなかったのだが、唇だけが少し崩れていた。でも、その唇こそ、この女優の魅力だった。色香を感じさせたり、そこから発せられる言葉に強さを与えたり。
いつしか彼女もそのことに気が付いた。人に強烈な印象を与えない自分の顔を恨めしく感じた。所属する、小さな劇団での扱いも同じ。演技力は着実に伸びても、主役の座がめぐってくることはなかった。彼女の日々の努力が、報われることはなかった。
続きは次回。
大学卒業の年、彼女の前に突然現れた男性がいた。今まで彼女が付き合ってきた男性とは違う、全く別のタイプ。何が?・・・まず容姿。彼は背も低く、決してハンサムではなかった。経済的にも特筆すべき点はなく、というより、やや生活に窮していた。理科系国立大学の院生。専攻は生物学。暇さえあれば顕微鏡を覗いていた。
彼女は彼に魅かれた。その理由は何よりも、彼が彼女に振り向かないことだった。時間を見つけては、彼女は彼の研究室に足を運んだ。何をするわけでもない。顕微鏡に吸い付いている彼のそばにいるだけ。愛情を微塵も見せない彼に注ぐ、献身的な愛情。そんな自分に酔うかのように、彼女は満たされる自分を感じた。そしていつしか、二人は恋人になっていた。
大学を卒業し、彼女は就職した。OLの彼女は、瞬く間に「職場の花」となった。こうなると彼女の自意識、自分の容姿への自信が復活する。自分より微生物を愛する彼よりも、若手サラリーマンと過ごす夜の方が楽しかった。時には、自分の父親と同じ年齢の上司と一晩を共にすることもあった。ただ、毎週日曜日。その日だけは今まで通り彼のそばにいた。なぜかそれだけは・・・、彼女自身も不思議だった。
彼女も適齢期を迎え、結婚をした。相手は、父親の親友からの紹介。見合い結婚だった。真面目で優しい彼だった。見た目もなかなかで、彼女も満足していた。この結婚を期に、「顕微鏡の彼」に別れを告げた。結婚をする、そのことを告げたとき、彼は悲しそうな顔をした。だがそれは、それ以上でも以下でもなかった。
強く引きとめてくれたら・・・彼はそうしなかった。
全く興味のない態度を示されたら・・・彼はそうもしなかった。
彼の、「当たり前の男の態度」に、彼女は自分の熱が冷めていくのを感じた。
結婚してからの彼女は、その美しい容姿に妖艶さが加わり、ますますもって魅力的になった。一夜の夢を求める男。真剣な交際を申し込んでくる男。彼女はそれを時に拒み、時に受け入れた。そのことに全く気が付かない自分の亭主。彼女に芽生える罪悪感が、余計にこの伴侶への愛情を深くした。気が付かない、というだけで、彼は幸せを手にしていたのだ。二人の愛娘にも恵まれ、この子達の成長とともに、彼女の恋多き人生にも、いつしかピリオドが打たれた。
ニンゲンハ、「愛サレタイ」トイウ欲望ガアル。
ニンゲンノ目標二、「幸セナ家庭」トイウモノガアル。
続きは次回。
彼女は恋多き女だった。両親から受け継いだ容姿は美しく、彼女もそのことを自覚していた。
最初に男性と付き合ったのは高校時代。相手は校内でも評判の好青年。成績優秀でテニス部の主将。彼女にとって不足ない相手だった。二人の恋は卒業まで続く。まさに、人もうらやむ仲、だった。しかしながら、彼女の進学先が都内の大学に決まったことが、二人の関係を他人に戻した。地元の国立大学に進む彼、彼女にはそんな彼が小さく見えた。気持ちは離れ、終止符を打つために二人は最後に会った。彼女の目の前に立つ彼、彼はもう輝いてはいなかった。なのに・・・。
家に帰った彼女は自分の部屋で号泣した。別れる瞬間によみがえった淡い想いから?・・・いや、彼女自身にも涙の意味はわからなかった。ただ、あふれ出る激しい感情を抑えられず、彼女は夜通し泣き続けた。
次の恋は大学一回生の冬。都内の名門女子大に通う彼女に、猛烈なアタックをかけてきた男性がいた。青年実業家、27歳の彼を人はそう呼んだ。前の彼にはない大人の魅力。成人前の彼女にとって、彼の年齢は十分すぎるほどそれを感じさせた。前の彼との間にはなかった大人の恋。オープンカーでのドライブ。高級レストランでの夕食。ホテルの最上階で迎える朝。すべてのシチュエーションが初めてだった。金銭的にだけでなく、彼は心も満たしてくれた。彼が心から愛してくれていることを、彼女は感じることができた。「結婚」という2文字が、時折彼女の脳裏をよぎった。
だが、突如として状況が一変する。彼の経営する会社の倒産。右肩上がりの経済成長期に生まれた彼の会社には、逆境に耐える力が不足していた。彼は一転して人生の負け組みになった。当然のこと、彼が彼女に与えていたものは何もなくなった。
普通に考えれば、金の切れ目が縁の切れ目。だが、彼女は違った。今こそ彼を支えたい、そう思った。なのに・・・二人は破局を迎えた。彼女の優しさを彼は拒んだ。彼のプライドが許さなかったのだ。哀れみ、としか受け取ることができなかった。そんな彼の元を、彼女は静かに離れていった。
続きは次回。
六代目吉松 あらため 佐草奈美 です。
4作目です。
素晴らしき人生
佐草奈美
彼の人生は、まさに「波乱の生涯」だった。幼き折に父親を病気で失い、しばらくして母親は再婚。その相手は満足に仕事もせず、ことあるたびに彼に暴力を振るった。苦しい生活の中、義務教育以外を受けられる経済的余裕はなく、彼は中学卒業と同時に社会に出た。勤めたのは運送会社。現場作業員としての彼は、実直で勤勉、周囲の評価も高かった。美人、とは言えないが、同僚の中にやさしい彼女もできた。少し年上の、おとなしい人。彼の人生の中での「花の季節」 だった。
だが、その小さな花も程なく枯れてしまう。彼女の突然の死。理由は彼の会社の上司からの性的虐待。純粋な二人は結婚を約束し、彼女はその瞬間まで純潔を守りたいと彼に告げた。彼はそんな彼女を更にいとおしく感じ、その気持ちを大切にした。そんな、二人で育んだ小さな花は、野蛮な手によって無残に握りつぶされた。彼との約束を守れなかった彼女には、自らの命を絶つことが最後の貞節だった。
彼女を失った彼は、その会社を離れ、職を変えた。彼を待っていたのは「夜の世界」。もともと体躯に恵まれていた上に、作業員としての毎日が彼を強靭にしていた。彼はキャバレーのボディーガードとして雇われる。泥酔し、前後不覚になったサラリーマンから有り金すべて巻き上げたり、暴力団まがいの相手と格闘し、ねじ伏せたりした。
そんな彼に事件が起きた。彼の勤めるキャバレーにあの男、そう、彼から彼女を奪ったあの上司が現れたのだ。彼に詫びるため、ではない。偶然客として。この男は、彼よりも先にあの運送会社を辞めていた。とは言っても「かくまわれた」かたちで。彼は社長の従兄弟であり、事実がもみ消されるように、彼は子会社のタクシー会社に籍を移していた。
ホステスからの話では、あの男はそのタクシー会社の専務だという。常連、とまではいかないが、時折得意先を連れてくるのだという。すぐに女性に触ろうとするため、ホステスたちからもあまり好かれていないのだという。
「すぐに触ろうとする」
・・・この言葉が、彼の心の中の何かを爆発させた。彼は無言のままホールに現れ、男の前に立った。男は彼の正体に気付くことができただろうか。彼は男の首を右の手で握りつぶした。鈍い音とともに。
ニンゲンニハ、「悲劇ノ主人公」ニナリタイトイウ欲望ガアル。
ニンゲンノ世界ニハ、「勧善懲悪」トイウ言葉ガアル。
続きは次回。
六代目吉松 あらため 佐草奈美 です。
今までの2作と違い、「書き下ろし」をやってみました。
誰かに聞いたのですが、ブームになった韓国ドラマ 「冬のソナタ」 は、
途中でストーリーが変わっていったのだそうです(間違っていたらごめんなさい)。
それを真似てみて、その時の感情の起伏で、書いてみました。
結果としては ・ ・ ・ もう少し計画的に構想を練るべき、でした(涙)。
特に最後の部分、
いろんな結末が頭を駆け巡りすぎて、主人公以上に私が大変でした。
やっぱり。
・ ・ ・ 仕事も趣味も、計画が大事です。
付記として。
エクストラコミュニケーションズの塁くんが、私の小説のために「ウェブページ」なるものを作ってくれました。
書き終わり小説を、別ページに、ひとまとめにできるようにしてくれました。
「佐草奈美 小説書き終わり」のカテゴリから、 入れるようにしておきます。
ウェブに関して、知識も表現力も著しく乏しい私。
その私が何をしたいかを把握してくれる塁くん。
ありがとう。感謝です。
そして・・・。
決意した私の前に、灰色の影は現れた。人通りの多い街の中。私は持っていたカバンを放り出し、窮屈なスーツ姿のまま、人目をはばかることなく全力疾走し、彼を「追い詰めた」。
「良いのか」
返答した灰色の影、私と同じ少し太い声。短く言葉を区切る、私と同じ口調。輪郭が灰色に少しぼやけていることを除いては、何も違うところのない、私そのものの姿だった。子供の頃、両親の間で悲しんだ私。その私に一瞬だけその存在を現したのは、今の私に対する暗示だったのだろう。
私は彼の言葉に首肯する。と同時に、彼のぼやけた輪郭は整い始め、私は自分の意識がすうっと遠のいていく感覚に襲われた。
「今夜は少し早いと思う」
妻はその言葉に笑顔でうなづく。車が十字路を左に曲がるまで見送ると、家の中に戻り朝食の後片付けを始める。手際よく済ませ、濡れた手をタオルで拭くと、妻はふと窓辺に目をやった。早春の日差しが、この南側を向いた窓まで届くのは、1、2時間後といったところだろうか。
「あっ」
妻は窓辺に置かれた植木鉢の変化に気が付いた。
「咲いた・・・んだ」
いつの間に蕾をつけていたのだろう。植物は花を咲かせていた。花弁は少し紫を帯びた濃紺色。所々に星屑のような金色の斑点。朝の時間の流れに逆行するような、夜空を思わせる花だった。妻は花をぼんやり眺めながら、ひとりつぶやいた。可憐な花の姿に、特別な感慨を見せることなく。
「行っちゃった、ってことだ」
整然としたダイニングに、さっきまでの朝食の痕跡はない。広さだけが強調されたその空間。妻は椅子に腰を下ろし、テーブルに頬づえをついた。
目線は花から外され虚空を向いている。妻は思い出していた。見送ったとき、確かに、あのネクタイピンは着けられていたはずなのに。
植木鉢の花は、この世界のものではないことを妻は知っていた。
その植木鉢が「花を咲かせる」という意味も含めて知っていた。
・・・今朝、妻が見送ったのは「私」であって私ではなかった。
・・・今夜、早く帰ってくるのも「私」であって私ではなかった。
「まあ、おあいこか」
妻は小さなため息とともに立ち上がった。少し恨めしそうに花をにらむと、掃除機を手に家事を再開した。
掃除機の音が、妻しかいない家の中に響き始める。
その、妻の輪郭が時折灰色にぼやけていることに、誰も気付くものはいない。
了。
ありがとうございました。
妻との時間に割かれた分、彼女との時間はいつもより短かった。妻同様、彼女も文句を言わない。だから余計に罪の意識が強くなった。罪の意識は、彼女への更なる愛情へと転化した。
次の朝、決済を待つ書類に囲まれて、私は会社の自室にいた。私の年齢が社長としては若いこともあり、社員も皆若い。稟議書、提案書・・・。さまざまな書類には、彼らの活気がみなぎっていた。起業において、「危ない橋」を渡ったこともあったが、今の充実感を思えば笑い話だ。厳しい私の姿勢について来てくれるスタッフは家族同然だ。「家長」として、私は彼らを牽引し続けなければならない。
Aという女性社員の提案書に目を通す。おとなしいのだが、時に斬新な提案をする。今回は社内の経費節減について。その書中の「電気代」という言葉に反応して、私は自室内の洗面化粧台に目を向けた。鏡で身なりを整えたときから、照明がつけっ放しだった。
「いかん」
独り言とともに、私は席を立った。
鏡に映ったのはどちらが先だったのだろうか。私は灰色の影に気が付いた。強い視線。昨日のデパートでのそれと同じだ。間違いない。
私が振り返ったとき、案の定、その姿は掻き消えていた。
仕事を終えた私に先んじて、車に乗り込んでいたこともあった。銀行の応接室で見かけたこともあった。お茶を給仕してくれた女性の後ろ、隠れるようにこちらを見ていて、私は思わず「あっ」と声をあげた。声に驚いた女性は私のスーツの裾にお茶をこぼし、ひと騒ぎになったりもした。
子供の頃の記憶がよみがえるのに、時間はかからなかった。
そして、子供の頃にはわからなかった灰色の影の意味が、今の私には理解できた。
明け方、いつものように彼女との別れが近づいてきた。泣きじゃくる彼女を優しく抱擁すると、私は彼女に告げた。
「もうすぐ。辛い思いはもうすぐ終わるから」
涙に滲んだ目を見開いて、彼女は私の顔をじっと見つめた。
続きは次回。
ある休日のこと。私は妻と買い物に出かけた。愛情と懺悔が入り混じったような複雑な気持ちで妻を誘った。「欲しいもの、プレゼントしようじゃないか」という私の言葉に、妻は屈託のない笑顔を見せて喜んだ。
妻は私をあちらこちらに連れまわした。よくできた妻、とはいえ鬱屈していたのだろう。散歩にはしゃぐ子犬のように飛び跳ねていた。私は「リードを手放さないでいる」のが精一杯だった。私より11歳も若い妻。人ごみを歩くのが苦手な私。バッグや衣類といった商品を手にして問いかけてくる妻への返事は、疲労とともにおざなりになった。
私の様子を察した妻は、デパートに備え付けられたベンチに私を座らせると、店内の人ごみの中に消えた。老兵を戦地から遠ざけ、ひとり突撃するジャンヌダルクだ。妻の背中に勇敢さを感じながら、私は混雑する店内から目をそらした。冬将軍の猛威に肩をこわばらせる外の人々。同情と余裕をもって眺めていられるほど、デパートの中は常春だ。だが、のんびりと文明の恩恵を享受していた私に、突然誰かの強い視線が突き刺さった。
デパートの中、人ごみの中からだ。妻のものではない。
私は外を眺めながら、意識だけを視線の方に注いだ。
しばらくして私の肩を叩く手。買い物を終えた妻のものだった。と同時に、私は視線から開放された。
妻は「戦利品」を入れた紙袋を手に、充実した表情をしていた。私たちはレストランで早めの夕食を済ませ、家路に着いた。
夜、窓辺の植木鉢に向き合う私に、妻は何かを差し出した。デパートの紙袋。中に小さな箱が入っていた。妻に勧められるままに箱を開けた私は、あっ、と小さな声をあげた。
ネクタイピンだった。
あまり今どきではないのだろうが、私は好んでネクタイピンを使った。箱を手に静止したままの私の顔を、妻は上目遣いに覗き込んだ。
「私に、か?」
もちろん、とばかりに妻は笑顔でうなづく。その笑顔に鼻の奥がつんとなり、不覚にも私は涙した。
「あり、がとう」
涙で声が詰まった。大げさだといって妻は笑った。つられて私も笑った。
その日、いつもより夜更かしをして、妻といろんな話をした。
続きは次回。
夢は相変わらず続き、私は彼女に会い続けた。会社での立場上、勤務時間は長く帰宅時間の遅い私。妻と共有する時間はわずか。考えてみると、夢の中の彼女に会っている時間の方が長かった。
彼女との時間は更に鮮明に、連続性を増した。気が付いたのだが、会ってすぐの彼女の目は赤く腫れていた。私が戻ってくるまで泣きながら待っていた証拠だ。美しさにいじらしさまで加えられると男はいけない。私はますます彼女に傾倒した。別れが近づくと、必ず戻ってくることを彼女に何度も約束した。
結果、私は二つの悩みを抱えることになった。ひとつは、彼女の慟哭は私が離れることを原因にしていること。そしてもうひとつは、妻に対する良心の呵責。彼女との時間を長くしたいがために就寝時間が早くなった私を、妻は「疲れているから」と判断しただろう。事実、私自身の口からもそう言われていたのだし。彼女への想いが止められないからといって、妻への愛情を失ったわけではない。でも、妻への愛情は変わらなくとも、彼女に奔る自分は抑えられなかった。文句を言わない妻が切なかった。
夢は無責任で、場当たり的なものであるはずなのに・・・。
種を植えて、私には夢と現実の区別が不明確になっていた。
種は芽を出した。冬枯れした窓の外の景色に不釣合いな、青く、生命力に満ちた葉を広げた。「こちらの世界」で彼女を感じる唯一の、貴重な存在だ。水遣りはもちろん、話しかけたりもした。甲斐甲斐しく世話を続ける私の姿を、妻はどう見ていたのだろう。
続きは次回。
夢を見るようになって1ヶ月あまりの、ある朝のことだった。いつものように私は目を覚ます。彼女との幸せな時間、そして彼女の苦しむ姿。どちらも鮮明なこの記憶は、夢の世界から戻ってくる私への定番ともいえる「土産」だった。私は小さなため息をつく。この夢を見るようになってから、といって特別に寝不足や疲労感があるわけではなかった。ただ、いつも何もできず帰ってくる自分に小さなため息をつく。これもまた定番だった。
いつも慰めようとするのだ。落ち着かせようとするのだ。肩を抱いて、両手を握り。でも、いつも彼女を抑えることはできない。何も通じない。何もしてあげられない。
シャワーを浴びようと私はベッドを降りた。例年なら秋の風が吹く時期なのだが、残暑が厳しく夢のせいならずとも寝汗をかいた。妻はすでに起きて朝食の支度をしている。時間の確認をするため、ベッドサイドの時計に手をかけようとして、私は左手の違和感に気がついた。
「これは、種?」
パチンコ玉くらいの大きさだろうか。私の左手は茶色い種を握っていた。昨晩、手にして就寝したわけではない。それは夢の中、彼女が苦しみながら私に手渡したものだった。
「まさか・・・」
いくら特異であっても夢は夢。記憶は鮮明でもそれ以外は持ち帰れない。当然にそのはずなのに、この種。強く握り締められていたせいか、種は湿り気を帯びている。
ダイニングの方から私を呼ぶ妻の声がする。ああ、と生半可な返事をすると、私はその種をコインケースに放り込んだ。
その日の仕事を終えての帰り道、私は寄り道をした。路上に車を停めて、小さな園芸店に立ち寄った。この手の趣味に対する造詣が全くない私には、初めて入る種類の店だ。中には女性の好みそうな園芸雑貨が並んでいた。
「植木鉢は、ありますか?」
私は店員に尋ねた。ないはずはない。ここは園芸店なのだ。案内されたコーナーで適当な大きさの植木鉢を手に取ると、私はレジに向かった。店員は営業スマイルとともに、私から植木鉢を受け取った。
「何か植えるのですか?」
その言葉に、不慣れな店にいるという緊張感が和らぎ、私はコインケースの中の種を店員に見せた。
「これを、植えようと思って」
何の種かがわかるかと思ったのだ。大きくなるものだったら、この植木鉢では駄目かもしれない。
「これ・・・どうされたのですか」
まさか夢で手に入れたとは言えない。私は嘘をついた。
「友人から。海外旅行のお土産でね」
結局、何の種かはわからず、一般的な植木鉢と土、スコップなどを購入した。夢で手に入れた種の種類を、現実世界の店員に聞いたところでわかるはずもなかった。ただ、尋ねたおかげで、植木鉢だけ買って帰るという失態は免れた。
家に帰り着くと、私は早速作業を始めた。妻は興味深そうに様子を見ている。何も詮索しない。過去にも時折、突飛なことを私はしていたので、特別に意識はしないのだろう。部屋の中を汚さないようにと、新聞紙を広げてくれた。
種を植えた鉢は南向きの窓辺に置いた。何かの変化に期待しつつ、私は就寝した。
続きは次回。
半年ほど前からだろうか。私は夢を見るようになった。それも毎日。夢を見るなんて珍しくないが、毎日、となると別であろう。しかも、ほとんど同じ内容の夢。無責任で、場当たり的な内容が夢というものであるはずなのに、この夢はひどく鮮明で、連続性をもって私に訴えかけてきていた。
夢の中、私は魅力的な、ひとりの女性とともにいた。彼女は絶えずわたしのそばに、私たちは常に寄り添っていた。特別に何をするわけでもなく、ただ、ともにあるだけだった。微笑む彼女のあたたかさを私は感じ、彼女もまた、私に包まれていることに幸せを感じる。普段、誰にも見せたことのないような笑顔で、私は彼女を見つめ続ける。
誰にも邪魔されずに、永遠に続くことを願うこの時間。だが、終焉は突如として訪れる。彼女は泣き叫び、狂乱し、自分を傷つけ始める。そんな彼女に何もできず、私はうろたえる。そして・・・私は目を覚ます。
私の日常において、夢の原因になる特別な事態があったわけではない。私が起業した会社の業績は順風満帆。売上、利益の推移も堅調で、従業員は50人を超えた。昨年、結婚をした。起業して7年、「社長だったらそろそろ身を固めないと・・・」という取引先からの勧めで見合いをした。流れるような段取りで入籍となった。特別美人というわけではないが、私には勿体ない、しっかりした女性だ。贅沢をするわけではなく、いつも帰りの遅い私に愚痴ひとつ言わない。自分の妻ながら感心する。子供はまだいないが、いずれ、ということになるのだろう。
私には、何の不安も、何の不満もなかった。そんな私に、夢は、そして彼女は、前兆すらなく舞い降りた。
続きは次回。
あの頃の記憶のままだ。灰色の人の影。輪郭が少し溶けたようにぼやけている。記憶違いもあった。2階の窓から顔をのぞかせていたのだから、ずいぶんと大きな存在だと思っていた。でも、私の前を行く姿は私の背丈と変わらない。私の背丈は、人より少し大きい程度。当然に、2階の窓から顔をのぞかせるなんて芸当はできない。浮かんで・・・いたのだろう。外見に非常識な特異性があるだけに、浮かんでいたことに今更驚愕する必要もない。
「何か」は進み続ける。疲れてきている様子はまるでない。人の間を器用にすり抜ける。私のようにぶつかったりはしない。
私に、幸運が舞い降りた。追いかけられる「何か」は、表通りから左の路地に進路を取った。そこには6軒の店が立ち並ぶ。昼時に、私が時折顔を出す定食屋が一番奥。その先の奥正面は、都会に残された寺の境内地。近代的な佇まいに姿を変え、境界を2メートル近くある壁で覆っている。裏側になるので入口はない。つまり、「何か」は行き止まりに逃げてしまったのだ。
私も遅れて左に進路を取る。そこにはようやく追い詰めた「何か」がいるはずだ。私は限界を超えつつある自分の体に、最後の鞭を打つ。
彼は、そこにいた。彼・・・「何か」はまぎれもない、人の姿をしていた。静かにこちらを見ている。彼は追い詰められたのではない。私を待ち構えていたのだ。そう、静かに。
他には誰もいない。私と彼の二人きり。6軒の店先からも人の気配は全くなく、さながらその空間は、私と彼だけの小さな宇宙となっている。
私は追いついたものの、自分の息が落ち着くまで話すことができなかった。両手をひざに、前かがみの姿勢で呼吸が整うのを待つ。彼もまた、それを待っていてくれている。もう大丈夫、逃げないよ。静かな表情はそう伝えている。覚悟を決めた。そんな風にも感じられた。
ようやく呼吸が落ち着いてきた私は、ひとつ、深呼吸をしてから彼に話しかける。
「頼みたいことがある」
彼は小さくうなずき、
「良いのか」
彼は応える。私と全く同じ口調で、私と全く同じ声色で。
続きは次回。
六代目吉松 あらため 佐草奈美 です。
3作目です。
瑠璃色草
佐草奈美
おそらく、周囲の目に私の姿は奇異に映っていたに違いない。40歳に程近いサラリーマンの全力疾走。血走った眼は前方を見据え、人ごみの中を掻き分ける。何かを追いかける姿。まさにそれなのだが、その「何か」は私以外には見えていない。だからこそ奇異なのだ。しかし、私にそのことを構う余裕はない。私にその「何か」が見えている以上、私は追いつかなければならない。
店先のショーウインドウには、季節を先取りした衣装が並ぶ。春の訪れに気が付かず、コートに身を包む人達を笑うかのような明るい色彩。そこに重なるように、私の姿がガラスに映り込む。無論、「何か」は映らない。両の手をちぎれんばかりに振るい、汗みどろの私を尻目に、「何か」は滑らかに先を急ぐ。
「ま、待て・・・」
絶え絶えの息とともに私はかすれた声をあげる。すると、その声に応えるかのように、「何か」は静止した。が、それは一瞬に過ぎず、また先を急ぐ。私は離されないでいるだけで精一杯だった。
私は子供の頃、一度だけその「何か」に出会っている。視界に飛び込んできた、といった方が適当かもしれない。当時私が住んでいた家の、2階にあった私の部屋。その、バルコニーのない窓の向こう。小さな玩具でひとり遊んでいた私が、その窓の方を振り向くことは、「何か」にとって予期せぬことであったのだろうか。慌てたように「何か」は姿を消した。
私も同様、予期せぬモノの存在に慌てて窓を開けたのだが、どこにも見つけることはできなかった。灰色の、人の影のようなシルエットだけが、私の目に焼きついていた。
私の両親は不和であった。幼い私にも、そのことは感じられていた。不和の理由はわからなかったが、結果は想像でき、その通りとなった。辛かった。両親は、互いの関係においては不和でも、私に対してはどちらも多大な愛情を注いでくれていた。どちらとも、離れるのは嫌だった。私と離れることになるどちらかは、私と会えずきっと寂しい思いをするに違いない。変に大人びた考え方をするところのあった私は、離れる方の親が可哀想で泣いたりしていた。
続きは次回。
六代目吉松 あらため 佐草奈美 です。
前回よりかなり長くなりました。
同人誌には1回分として掲載してもらったのですが。
分けるって、意外に難しい作業です。
自分としてはお気に入りの作品です。
記憶人形が奪うのは「特定の人の記憶」だけ。
「ネックレスを渡したい」 という記憶は残ったまま。
悪魔(=女神)の「大丈夫。すぐに戻るから」という言葉の意味は、
これから新しく構築されていく 「主人公とNの記憶」
その新しい「記憶」は・・・
主人公とNが結ばれる。
婚約者のいるNに主人公の想いは玉砕される。
さて如何。
あ、それと当然にフィクションですので、事実に基づくはずもなく、
「Nって誰のこと?」 なんて、詮索は不要です(笑)。
平穏な毎日が続いていた。悪魔に最後にあった次の日、会社で上司に叱られたことを除いては。上司の記憶はあの悪魔が戻したのだろう。わたしは上司とともにA物産を訪問した。A物産の社長は、笑っていた。記憶の戻った上司は、社長に向かってわたしをアピールした。自分のあとを任せられるのはコイツだけだと。
わたしの家に、不思議なものがあった。サファイアのネックレス。誰にあげるつもりだったのだろう。買ったことは覚えているのだが。ま、いつか思い出すだろう。わたしは、鞄の中に無造作に放り込んでおいた。
ある日の夕暮れ時のことだった。取引先との交渉は予定より早く終わり、今日の業務は完了。さて、と車のドアに手をかけたとき、わたしのことを呼び止める女性の声に気が付いた。
「元気だった?」
彼女は笑顔とともにわたしのそばに近づいてきた。色の白い、魅力的な人だった。
「はあ」
取引先の受付か何かの人だったかな。
「何よ、その返事。偶然見かけたから声をかけてやったのに」
おどけて怒るような仕草をみせた。
「ああ、すいません」
まだ誰だかわからない。
「スイマセン、だなんて変なの。どこかぶつけたんじゃないの」
白い手がわたしの額をなでた。誰かと勘違いされている? そう思った。でも・・・
こんなに素敵な女性に・・・こんなに素敵な女性に・・・。わたしの中で何かが弾けた。
「あの、よかったら一緒に食事でもしませんか。俺、今日もう仕事終わりなんで」
そうだ。サファイアのネックレスはこの人に渡すんだ。なぜか、そう思い出していた。
異世界、と言うべきか。天界、とでも言ったほうが良いか。そこにいる者たちはみな、背中に美しい羽根を携え、神々しい光を放っている。その中でも、ひときわ美しい女性が、柔らかな微笑みで、人間の住む下界を見つめていた。
「女神様、何を見てらっしゃるのですか」
そばに従事する天使がたずねた。
「自分の気持ちに素直な人は、素敵ですね」
微笑む彼女に、天使もまたやさしい表情になった。その場を外れようとした天使は、女神の足元におかしなものを見つけた。美しい彼女に似つかわしくない、黒紫色の物体。
「ああ、これですか? 小道具ですよ」
女神は手に取ると、指先で軽くはじいた。醜悪な表情のマスクと湿り気のあるウェットスーツのようなもの。そこに包まれていた記憶人形。腹の切れ目からは「N」という、色の白い魅力的な女性の写真が飛び出していた。
了。
ありがとうございました。
記憶人形を鞄の中に、仕事を終えたわたしは家に着いた。自分の愚かしさ、身勝手さ、あさはかさ、そして何よりもNを混乱におとしいれたという罪悪感。何もする気になれなかった。壁を背に座り込んで、低いアパートの天井を眺めていた。すると、湿り気のあるものが、わたしの腕をつついているのを感じた。
「うまくいったかしら」
あの悪魔だった。わたしはそちらを向こうともせず、答えた。
「そんな風に見えるか」
悪魔はちょっと考えていたようで、間をおいて話し始めた。
「いずれにしても交換条件はもらわなきゃいけないのよね。それと、記憶人形も返してもらわないと。・・・どこにあるのかしら」
事務的な声に、わたしは鞄を指さすだけだった。
「ああ、この中ね。あと、約束だから、大切なもの、もらっていくわね」
天井を見上げたままのわたしの手のひらに、悪魔は何かを押し付けていった。どきりとして、自分の手を確かめたとき、わたしは異変に気が付いた。
「あれ、俺は今、何をしていたんだっけ?」
続きは次回。
次の日、得意先回りと称して会社を出た。Nの勤める会社まで、車でおよそ30分。11時半ごろに到着した。携帯電話でNを呼び出し、近くのファーストフード店に入った。
沈うつなNの表情に、わたしは胸が痛んだ。昨日、ほとんど寝ていないのだろう。白い肌は目の下の隈を際立たせていた。
「ありがとう、来てくれて。でもわたし、何が何だか・・・」
Nの声がにじんでいく前に、わたしはNの手を取り記憶人形を握らせた。頭の部分が膨らんだかと思うと、みるみるうちにしぼんで、元の大きさに戻った。
「仕事があわただしくて、長くいられないけど、元気出して。記憶、きっと戻るから」
わたしは記憶人形を握るNの手を、上から覆うように握った。
「うん。でも、わたしね。Wなんて男の人、全然・・・あれ?」
ぽかんとしたNの表情に、記憶が戻ったことを確認できた。こうなると長居は無用である。
「どうかしたか?」
わたしはNの目を少しわざとらしくのぞきこんだ。
「え、あ、あれ? 記憶、戻った・・・?」
考えると少しおおげさな態度だったか。加えて疑わしい態度だったか。わたしはNの肩を握り、前後に揺らした。
「記憶、戻ったのか。よかった、よかった。ん、あ、そうだ。ごめん、俺仕事に戻らないといけないから。それじゃ」
Nの返事も聞かないまま、わたしは逃げるように店を出た。取り残されたNの様子を振り返ることは、到底できなかった。
続きは次回。
その日の深夜、Nから電話があった。わたしは少しうわついた気分で電話に出た。
「どうした。不眠症を解消してほしいのか」
冗談交じりにそう言った。だが、Nの返答は真剣だった。
「わたし、頭がおかしくなった」
涙声であることが受話器越しにわかった。
話の内容はこうだった。わたしと別れ、家に帰ったNの家に電話がかかってきた。最初、電話口に出たのはNの母親だったが、Wという人物からだという。当たり前のように母親から受話器を渡され、Nは戸惑った。おそるおそる電話に出たが、知らない男性だ。「どなたですか」とたずねると大笑いされた。怖くなり、電話を切った。
またかかってきた。母親はまた当たり前のようにNに受話器を渡す。Wという男性は馴れ馴れしく、挙句の果てに新婚旅行の話まで持ち出してきた。怖さ半分に、Nは大きな声をあげた。「どこの方だか知りませんが、つまらないイタズラはやめてください」
そんな娘の様子を母親が見ていた。母親は、娘に婚約者の記憶がなくなっていることにびっくりした。それから後は・・・Nの家族、Wの家族を交えての大会議。そこでNはさらに混乱した。Wという男性に見覚えはないのだが、Wの両親の記憶はあった。どういうことか。会議出席者のみんなから婚約しているという事実を告げられても、Wという男性だけはどうしても思い出せなかった。
泣きじゃくるNの声に、わたしはがく然とした。とんでもないことをした。 嗚咽をあげるNに、わたしは次の日の昼休み、会いに行く約束をした。
続きは次回。
約束の日曜日、待ち合わせの場所にNはやってきた。
「やあ」
こんな小さな一言でも、わたしとっては媚薬にも似たもの。愛らしい。どうして今まで友人などでいられたのだろう。
「悪いな、つき合わせちゃって」
母の誕生日だなんてウソの話、そんな意味からも「悪いな」と言ってみた。
「とりあえず、どこ行こうか」
Nが言うが早いか、わたしは彼女の手を引いた。
「アクセサリー売り場にしようかな」
わたしの母の年齢から考えるとアクセサリーなんて・・・彼女がそう感じたかどうかはわからないが、今のわたしにとっては関係なかった。以前、わたしがNの友人を恋人にしていたころ、プレゼントとして同じようにアクセサリーを選んでもらったことがあった。ネックレスや指輪、ピアスなどを代わりにつけてもらったりした。今だからこそ、そう思うのかもしれないが、わたしは当時からNにプレゼントしたかったのだろう。こうしてまた、二人でアクセサリーを眺めている。今日こそは、Nのために・・・。
わたしは、ネックレスを買った。店員に
「おかあさんには、いつまでも若々しくいてもらいたいものですよね」
と言われた。Nに似合う、小さなサファイアのトップのネックレスだった。試着のとき、彼女の白い肌に、美しく映えていた。
「ありがとう、N。お礼にランチをごちそうするよ」
わたしは、早く落ち着ける場所に行きたかった。もう、ずいぶん前から記憶人形の中にNの婚約者の写真は入っていた。
「ありがとう。でも、まだ早くない? 11時だよ」
二人でデパートに入ったのが10時、1時間かけてプレゼントを選んだ。確かにランチには少し早かった。
「12時になると混んじゃうから。少し早めのほうがいいよ」
デパートのそばのホテル、屋上のレストランにわたしたちは入った。少しゆっくり歩いたので11時半、不自然な時間にはならなかった。
「どうしたの、奮発して。やけに気前がいいけど・・・あとが怖いなあ」
Nは首をすくめ、おどけてみせた。ひとつひとつの仕草がわたしを虜にしていく。
「もちろん、後で倍にして返してもらうよ」
とっさにわたしは自分の表情が気になった。何か、いやらしい顔をしてはいないだろうか。・・・どうやら大丈夫だったらしく、Nは笑っていた。奮発した食事が給仕された。わたしにとって何ものにも代えがたい、幸せなひとときだ。メインディッシュもたいらげ、食後のコーヒーが運ばれてきた。この瞬間だ。わたしは記憶人形を取り出した。
「これ、見たことある? この間買ったんだけど」
わたしに人形を差し出されて、Nは呆けたような表情になった。
「いつからそんな趣味?」
少し怪訝そうにNは受け取った。よし、あとは握らせるだけだ。
「感触が面白いんだよ。握ってみなよ」
完璧だった。Nは何も疑うことなく記憶人形を握りしめた。まあ、友人に手渡されたものを疑わずに握るくらいのこと、当たり前だが。前回同様、記憶人形は顔を現した。わたしも知っている、Nの婚約者の顔を。早速わたしは確認作業に入った。
「そういえば、W君、元気かい?」
成功を確信するまで時間はかからなかった。Nは口にあてていたコーヒーカップを机に置いた。
「誰それ?」
よし。そのときわたしは小さくこぶしを握った。
その後、二人で映画を見に行った。Nは一日予定を空けていてくれたらしく、夕食まで一緒だった。
わたしは積極的だった。Nに婚約者がいなくなった今、恋人になりうるのは自分だけだと確信していた。さすがにNも、いつもと様子が違うように感じたらしく、「何かあった?」を連発していた。
続きは次回。
仕事を終え、アパートに帰り、わたしは鞄の中の記憶人形を取り出した。そのまま持ち帰ったので、腹の中には名刺が入ったままだ。
「すごいでしょ」
テレビの横に悪魔がいた。最初に現れたときに見せた得意そうな顔、そのときよりも一層得意そうな顔で。
「驚いた。でも、少し聞きたいことがある。奪われた記憶は元に戻らないのか?」
上司の、プライベートでも付き合いのある得意先の社長の記憶を奪ってしまった。さすがに良心が咎めた。
「こほん、いい質問よ。お腹の中に何も入っていない記憶人形をもう一度握らせるの。そうすれば奪われたすべての記憶は戻るわ」
あいかわらず鼻につく物言いではあったが、これで使い方がわかった。あらためて使わせてもらう、と言おうとした。が、悪魔はもうどこにもいなかった。
Nと会う約束を交わした。日曜日、わたしの母へのプレゼントを選んでもらうため。もちろん名目。わたしは、記憶人形をNに握らせるつもりだった。彼女から誰の記憶を奪うのか。わかりきったこと、もちろんNの婚約者だ。これで結婚は白紙に、わたしは堂々とNに想いを告げるのだ。
Nの婚約者であるWの写真を用意した。飲み会のときのもので顔が赤い。ちゃんと認識するだろうか。わたしも写っていたのだが、丁寧に切り取った。後方に居酒屋の店員の姿があるが、まあ、これはいいだろう。元々記憶にないだろうし。
・・・日曜日が待ち遠しかった。
続きは次回。
記憶人形を手にしたわたしだったが、しばらくして我に返ったような気分になった。ばかばかしい。だいたいそんなこと、できるわけがない。もしかして、こんな不細工な人形のために大損をする結果になったんじゃないか。大切なもの、だなんて抽象的な表現をされたら、絶えずなくなったものはないかと確認しなきゃならない。買ったばかりのパソコン、海外で買ったブランドの腕時計、預金・・・いやもっと違うものか。今の社会における地位を失って、ホームレスにでもされてしまうのだろうか。本当は出世できるはずの将来を奪われるのか。いけない、急いで返品だ。わたしは焦った。が、もう彼女の姿はどこにもなかった。
彼女の姿をさがしてあたりを見回しているうちに、自分が車の中にいることを思い出した。ああ、早く会社に戻らなければ。とんだ道草を食ったものだ。わたしは車のキーを回し、サイドブレーキを倒した。
会社に着いたのは、ずいぶんと遅れるかと思ったが、予定していた通りの時間だった。つまり、あの悪魔と話していた時間は、どこかへ消えてしまっていた。
わたしが自分のデスクに着いたとき、上司の呼ぶ声が聞こえた。わたしの起こした今回の不祥事の結果報告を求めているのだ。クレームに返品。最悪の結果報告だ。ため息とともに少しうつむいたわたしの目に、さっき手に入れた記憶人形が飛び込んできた。そうだ、ダメでもともと、使ってみてやれ。
早速わたしは、取引先の社長の顔写真を記憶人形の腹の中にいれた。幸い、この社長の名刺は顔写真入り。利用することにした。
わたしは上司の前まで行った。記憶人形を左手に。とがった声がわたしに襲いかかってきた。
「おかえり。早速だが例のA物産の件、どうなったかね。ん? なんだその人形は」
わたしは慌てたが、とっさにウソをついた。
「あ、A物産の社長がこれを部長に見せてほしいと・・・」
「社長が? 何だこれは」
上司はわたしの手から記憶人形を取り上げた。あ、しまった。強く握らせなきゃ。上司にそのことをうまく言おうとしたそのとき、上司は記憶人形の腹のあたりをわしづかみにしていた。
「おかしな感触の人形だな」
上司のこの言葉とどちらが早かっただろうか。わたしはあることに驚いた。のっぺらぼうだったはずの人形の顔が、A物産の社長の顔に変わったのだ。そのことは瞬間的なことで、人形はまた元ののっぺらぼうになった。
「君は、ええっと・・・どこに行っていたのだったかな」
少し頼りなげにたずねる上司に対し、わたしは恐る恐る答えた。
「はあ、あのー、A物産ですが・・・」
上司はきょとんとした顔をした。
「A物産? ああ、新規顧客開拓かね。ご苦労さん」
驚いた。A物産は元々、上司が営業マンだった頃に開拓した顧客なのに。ゴルフに行ったり酒を飲んだり、プライベートでも付き合いがあると言っていたのに。わたしは上司のデスクに置かれた記憶人形を手に取り、改めて見つめた。
続きは次回。
「この人形は・・・」
顔のない人形を見つめ、わたしはつぶやいた。皮のような、布のような、不思議な生地で作られたこの人形。わき腹のあたりに切込みがあり、紙のようなものなら入るようになっていた。
「記憶人形といってね。ある人から特定の人物の記憶を消し去ることができるのよ」
悪魔は、自分の尻尾を指先でもてあそびながら答えた。
「記憶を・・・いったいどうやって?」
まさか、と思いつつ、信じているわたしがいた。
「簡単よ。お腹のところに切込みがあるでしょ。そこに消したい人の写真をいれて少し強く握らせるだけ。握った人の中にあった写真の人物の記憶は、その人形が吸収してしまうわ」
尻尾で遊ぶことに飽きたのか、今度はとがった耳を触り始めた。引っ張ったり、折り曲げたり。耳にも飽きると、次は頭に生えているツノのようなもので。「醜い」と言われたことを気にしての行動だろうか。
「そんなことが・・・」
そう言いつつ、やはり信じていた。でも、こんな話、聞かされてすぐに「わかった」なんて言えるものではない。
「貸してあげるわ、試してごらんなさい。でも・・・」
少し伏し目がちになり、小さなため息をついたようだった。これがNなら、憂いがあって美しいと感じるのであろうが、この醜悪な風貌では・・・。でも実のところ、少し愛らしさを覚えた。
「でも・・・何だ?」
自分の中に感じた「愛らしさ」をかき消すように、わたしは強い口調でたずねた。
「ほら、アタシ、悪魔だから交換条件が必要なのよね。よく言われるところのタマシイってやつ? まあ、あれはイマドキじゃないから別のものになるけど」
確かに悪魔は交換条件を出す。昔読んだ小説では、必ずといっていいほど「タマシイ」だった。いったいタマシイを取られてしまうとどうなるのだろう。どの小説にもその部分の描写はなく、わたしは情報不足のまま、悪魔との交渉に臨むことになった。
「それじゃあ、何を?」
少し不安を感じたわたしは、自分の声が小さくなっていくのに気付かなかった。憂いの表情を見せていた彼女は一変、にやりと不敵な笑顔を見せた。
「ひひ。怖がらなくても良くてよ。あなたの命を奪ったりしないから。アタシがほしいのは、あなたが大切にしているものをひとつだけ。大丈夫、あの子を殺したりもしないわよ。そんなことしちゃったら、あなたの悩みを解決したことにはならないものね。大切なものといっても、しばらくしたらすぐ取り戻せるから、安心して」
立場的に優位になったことがわかったらしく、彼女は一気にしゃべった。ただ、ウソをついている、そんな感じは全くしなかった。
わたしは少し考えてから、彼女との交渉に応じることにした。
続きは次回。
確かに、言うとおりかも知れない。わたしとNとは10年来の友人だった。わたしの恋人がNの知り合いであったこともあり、恋の悩みなどを打ち明けてきた。彼女からの相談を受けることもしばしば。異性と言う垣根を越えた友情だった。そう、そのはずだった。
お互いの人生は、あまり深い係わり合いをもつことなく過ぎていった。深い接点がないからこそ、気軽に話せる友人として大切な存在になった。さまざまな挫折を味わい、辛酸を舐めるようなことがあったわたしだったが、彼女とは笑顔でいられた。関係において深いものがないことが、わたしの中の彼女への想いを深めていった。異性という垣根、わたしは越えてはいなかった。
わたしはNが好きだ。
そのことにようやく気が付いた。声を聞きたい。会いたい。抱きしめたい。30歳を超えて、まるで初恋をした少年のような感情に、わたしは支配された。
だが、Nにとってのわたしは、友人だった友情で結ばれた関係だった。当たり前だ。わたしに恋情が芽生えたからといって、彼女も比例するわけではない。交わされる言葉は冗談ばかり、会ってもデートにはならず、ふざけて抱きしめるような仕草をしても、
「お腹、出てきたんじゃない?」
そんな平行線だった。
わたしもいつしか、このままでもいい、と感じるようになっていた。Nにはすでに婚約者もあり、間近に結婚を控えていた。今更わたしが告白しても困らせるだけだろう。というか、笑い転げるに違いない。
「からかわないで」
そう、友人である期間の長すぎたわたしたちに、恋の話は冗談にしかならないのだ。ならば、このままでいい。Nが結婚したからといって会えなくなるわけではない。実のところ、Nの婚約者ともわたしは知り合いであり、わたしがNと二人で会っても何も心配されることはなく、問題はなかった。わたしの今の気持ちを知る者はわたしだけ。わたしが今まで通りにNと接していることが、平穏であることだった。そう、それでいい、それがいい。
続きは次回。
「どういうつもりだ」
わたしは語気を強めてそう言った。わたしは仕事中。取引先との交渉、とはいっても所謂クレーム。さんざんしかられた挙句に商品は返品。不機嫌なわたしを作るには充分すぎる状況。彼女の醜悪な笑顔は、わたしを嘲っているかのように感じられた。
「解決してあげるつもりってことよ」
わたしの「どういうつもりだ」という言葉は、彼女への返答になってしまったようだ。まるでわたしが悩みを相談しはじめたような会話の流れが、余計にわたしを腹立たせた。
「悩みは・・・」
ない、と言おうとしたとき、最後の言葉をさえぎるように彼女が口を挟んだ。
「言わなくてもわかっているわ、あの子のことよね」
少し得意げに、と同時にわたしを少し哀れむように、そんな眼差しをわたしに向けた。わたしのストレスは最高潮に達した。
「あの子だと・・・」
悪魔とはいえこんなに小さな存在だ。腕力に自信があるわけではないが負ける気はしない。神様ならバチがあたるだろうが、災いをもたらす悪魔を成敗して何が悪い。握りつぶしてやる。わたしは両手で彼女の体をわしづかみにした。
「あわてないの。うふふ、アタシはあの子じゃないわよ」
かなり力を込めたつもりだったのだが、痛がる様子を全く見せることはなかった。むしろ、彼女の体はカエルかイモリのような皮膚感で、握っているわたしの方が不快だった。胸のふくらみが意外に大きく、女性的な体つきであったのも余計に気分を悪くした。わたしが異性への興味をもって彼女を握った(抱いた?)かのようになった。
「ふざけるな、Nはお前のように醜い女性ではない」
わたしは、彼女の言うところの「あの子」の名前を口にしていた。自分に向けられた醜いという言葉、ショックだったのか、彼女は口をつぐんだ。
「・・・・・・・」
こうなるとわたしが悪者のようになってしまった。女性に対してデリカシーのない表現だったか。いや、悪魔相手に何を考えているんだ、俺は。元々こいつが勝手に車の中に入り込んできて・・・入り込んできて・・・別に悪いことをしたわけではないか・・・。悩みを解決だとかいってたが・・・。悪魔だと思っていたが本当は・・・。
「女ごころがわかっていないから、あの子も振り向かないんじゃなくて?」
少し遠くを見つめるような眼差しで、ため息混じりにそう言った。この言葉に、わたしの中の萎れかけていた怒りが復活した。何だ、そのツラで恋多きいい女気取りか。とにかく車の中から放り出してやる。
「お前に何がわかる」
再び彼女の体をつかもうとしたそのとき、彼女は白い人形を取り出していた。結果として、わたしはその人形をつかむことになった。どこから取り出したのだろう。彼女の大きさとほとんど変わらないその人形は、顔の造形がなく、のっぺらぼうだった。
「あなたとあの子の場合、過去の記憶が邪魔してるのよ。急に恋愛感情なんて持てないものよ」
甲高いことに変わりはなかったが、少し迫力のある声だった。
続きは次回。
六代目吉松です。
2作目です。実はこれ、「 佐草奈美 」ではなく、もうひとつの名前での作品ですが。
出どころは一緒ということで、 ご披露。
記憶人形
佐草 奈美
わたしがその「生き物」にあったのは夕暮れ時だった。仕事中の車の中。取引先との交渉を済ませ、帰社しようと車のドアを開けたとき、助手席のはしっこに座り、あまり気持ちの良くない笑顔を向けていた。
「悩みがあるんでしょ」
性別は「メス」だったらしく、声色は少し甲高い。ただ、愛らしさは全くない。表情は、気持ちの良くない、と前述したが、どちらかというと醜悪に近かった。彼女(言葉を話せるようなので、あまり動物的な表現はどうかと感じた)は助手席の上に立ち上がると少し伸びをした。言い忘れていたが、彼女はすこぶる小さい。全長はペットボトル程度。「助手席のはしっこに座り」と言ったが、椅子に座るという姿勢をとると、自然にそういうことになるのだ。彼女はまた甲高い声をあげた。
「ねえ、悩みがあるんでしょ」
わたしは不愉快になった。どうやったのかは知らないが、人の車の中に勝手に入り込んで、最初の言葉がそれなのか。何か他にあるだろう。ごめんなさい、勝手にあがりこんで、だとか、お待ちしておりました、だとか・・・。たとえ悩みがあってもお前なんかに誰が相談するものか。
今、思い起こせば不思議なのだが、彼女の大きさとか、とがった耳や尻尾とかに驚くということはなかった(言い忘れが多く恐縮だが、彼女には普通の人間にないものがたくさんあった)。彼女の存在そのものは極めて自然に受け入れていた。わたしの肝が太い、というわけではない。おそらく彼女がわたしの心理を操作したのだと思う。彼女にとって、さして難しいことではない。なぜなら彼女は「悪魔」だった。
続きは次回。
六代目吉松 あらため 佐草奈美 です。
多分、3年ぐらい前に書いたものです。
身分の違う女性に懸想し、想いを遂げようと策を講じる。
男として、好きになった女性に対する自然な行為。
この絵師は悪い男ではない。
そう思いながら書きました。
鬼に食わせてしまいましたが・・・。
佐草 奈美 という名前。
何も女性として書きたかったわけではありません。
実は、同人誌への参加当初は別の名前でした。
私に、この同人誌への参加を勧めてくれた N女史 から、
「小説を書いてくれる人が少ない」
と言われ、それじゃあ ヒトリフタヤク をやってみようか、 ということで
考えた名前です。
新しい同人誌参加者として登場した 「 佐草 奈美 」
女性で、既婚。
でも実は、逆から読んだら 「 みな うそさ 」 。
何か、このふざけた感じが気に入っていたので、
復活させることにしました。
今後とも、宜しくお願いいたします。
絵師は天井裏から下の様子をそうっと覗き込みました。お目当ての女房は・・・主から離れた御堂の出口近くでした。しめた。絵師はそう思いました。主からの距離が、女房の姿を悲しげに映していました。あの女房を救い出すのは自分しかいない。独善に支配された絵師の頭の中は、女房と仲むつまじく暮らす自分の姿でいっぱいです。絵師がいよいよ実行しようと天井裏の柱に手をかけた、その時でした。急に下が騒がしくなりました。
外にあった牛車の牛がいななき、暴れ始めました。牛は自分を襲ってくるものに必死で抵抗しているようでした。牛車引いていた童は一目散に逃げたようで、声すら聞こえてきません。最後に牛の骨を砕くような音がして、外は静かになりました。でも、御堂の中は女房たちの叫ぶ声で大騒ぎです。
何が起きたのかよくわからない絵師は、飛び降りる機会を失ってしまい天井裏に座り込んでしまいました。その瞬間です。腐っていた天井は抜けて、絵師は下に落ちてしまいました。それとほとんど同時に御堂の破れ障子が開き、恐ろしい形相の鬼が、牙から血をしたたらせて中に入ってきました。
御堂の中は大混乱になりました。天井からも、外からも鬼が現れて、女房たちは気がふれたように走り回りました。主は腰が抜けた様子で床を這っています。誰も柊の葉をかざすものはいませんでしたが、床には散乱していました。鬼は何ら気にする様子なく、馬のような足で柊の葉を踏み潰していました。ひとつだけの、大きな目をぎょろぎょろさせながら、時折臭い息とともに大きくうめくような声をあげていました。すでに気を失っている女房も多く、御堂の中はさながら地獄絵図のようでした。
何が何だかわからなくなって、呆然としている絵師を見つけると、鬼は頭から食ってしまいました。
昔、この御堂を建てたお坊様が、ここで修行をしていたとき、ひとりの美しい旅の娘が宿を借りに来ました。お坊様は、仏に仕える身でありながら、この美しい娘に愛欲の心を起こしてしまい、乱暴をしてしまったのです。娘は海に身を投げて死んでしまい、以来、お坊様は醜い鬼の姿に成り果ててしまいました。
それから、鬼は自分と同じ強欲な心を持った人を食うようになりました。婚儀を結んだばかりなのに、他の男と密会しようとした若い娘や、偽物の薬を売ったお金を御堂の中で数えていた行商人などを。だから、人を騙して女房をさらおうとした絵師も食われてしまったのです。
主と女房たちは命からがら逃げ帰ると、皆十日以上、高熱にうなされました。このことがあってから、主の興味本位も大人しくなったということです。
それにしても不思議なのは、絵師が描いた鬼の絵。見たこともない鬼の姿を描き当てたのは、阿弥陀様が絵師の才能を惜しんで、このような素晴らしい絵をかかせたのだろうと、後世の人は語ったとのことです。
了。
ありがとうございました。
夕刻、牛車に揺られる一行が都を出発しました。都からは少し遠い街道沿いの村、目指すのはそこにある御堂です。一行は、まるで花見か何かのように、たくさんの酒とご馳走を持って行きました。絵師の期待通り、女房たちも一緒です。少し怯えている者もありましたが、大半は主の浮かれ気分に乗せられて陽気な様子でした。
一行が御堂に到着したのは夜でした。皆は懐に柊の葉を入れていました。絵師の話によれば、鬼は柊の葉を恐れる、御堂から外には出てこない。すべて絵師の作り話とは知らず、皆は柊の葉を大切そうに抱いていました。花見のようにご馳走を用意してきたのですが、御堂に入った一行は、いたって静かに酒を交わしました。鬼が出る、という怖さからと、騒いでいては鬼も出てこないだろうという、どうにも入り混じった気持ちからでした。
この一行を後からつけてきた男がいました。あの絵師です。絵師は顔や体に塗るための色粉やら、中にたくさんの綿をいれたふくろやらを担いでいました。絵師は鬼に扮装して、あの女房をさらうつもりです。一行が到着してから少し遅れて、絵師は御堂に到着しました。
夜が更けていくとともに、あたりは静けさを増していきました。御堂の中に入っていく奇妙な一行を、最初は興味ありげに見ていた村人たちも、鬼を恐れて帰ってしまいました。一行は静けさ、寂しさとともに、寒さも感じ始めていました。酒を交わしても、すぐさめてしまうような寒さでした。
一方、絵師はぼろの服に着替えると、中に綿を詰め始めました。体を大きく見せるためです。色粉を顔や体、着替えたぼろにまで塗りつけると、自分で描いた絵のように、額のあたりに大きな目をひとつ、口のまわりには牙を描きました。絵師にとって幸いにも月の出ていない夜、絵師の姿は本当の鬼のように見えました。絵師は屋根に上ると、朽ちて破れたところから天井裏に忍び込みました。
続きは次回。
ある日のことです。絵師はいつものように主に絵を献上しました。犬の絵を三枚、主に頼まれていた品です。でも絵師はちょっと細工をしていました。
「はて、これは何であろうか」
三枚目を見終えて、主は目を丸くしました。絵師は何かに気付いたような素振りをして、それから慌てた様子を見せて、地面に頭をこすりつけました。
「申し訳ございません。手習いの品がまぎれていたようです。すぐに破り捨てますゆえ、お返しくださいませ」
実のところ、絵師はわざと一枚余分に絵を差し込んでいたのです。絵師の慌てふためく様子を見て、主は面白そうに答えました。
「まあ、よいではないか。ところでこれは何を描いたのじゃ」
絵師は内心、しめしめと思いました。頭を下げたまま答えました。
「おそれながら・・・御堂の鬼にございます」
主の手にあった絵は、目がひとつで牙を剥いた、体は馬のような、それは恐ろしい鬼の姿でした。
「ほう、お前はあの鬼を見たと申すか」
主は少し身を乗り出すようにたずねました。主の耳に、鬼のうわさは届いていたようです。
「は、はい」
絵師は少し震えた様子で答えました。頭は地面に貼り付けたままです。主が身を乗り出してきたことで緊張が高まり、汗がふき出してきました。
「わ、わたしは御堂の鬼の話を聞き、一度でいいから描いてみたいと思い、例の御堂に泊まることにいたしました。夜も更け、あたりは真っ暗になり・・・」
主は更に身を乗り出してきます。絵師は少し早口に続けました。
「天井がぎしぎしと軋んだかと思いますと、突然赤茶けた鬼がわたしの目の前に現れました。吐く息は何かの死体のように臭く、それだけで気を失ってしまいそうでした」
絵師の汗は、全身を滝のように流れていきました。
「わたしは鬼の姿を見据えると、胸元から柊の葉を取り出しました。鬼は少し怯んだ様子を見せましたので、あわてて表に飛び出しました。鬼は御堂の外に出てくる気配はなく、わたしは逃げることができました。家に帰り、まぶたに焼きついた鬼の姿を急いで描きましたのが、その絵にございます」
絵師は大きく震えていました。そんな絵師の様子をまじまじと見ながら、主は言いました。
「その話、うそではあるまいな」
絵師はがくがくと震えながら答えました。
「は、は、はい。う、うそではありません」
絵師の緊張は頂点まで達しました。自分が誰だかわからなくなるほど混乱していました。
「ふむ。その時の様子を話すだけでもそのようになってしまう。確かにうそではないようだのう」
主にうそをついていることから、絵師は緊張していたのですが、そのおかげでまことしやかに聞こえたようです。
絵師はほっとしてため息をつきました。と、そのことでうそがばれてしまわないかと思い、あわてて更に頭を地面にこすりつけました。
「おもしろい」
どうやら絵師のため息は主の耳には届かなかったようです。主は乗り出していた身を戻すと、そばに仕えている女房達にこう続けました。
「その鬼とやら、皆で見に行こうではないか」
主はうきうきとした様子です。でも、主より心が躍っていたのは、実は絵師の方でした。
続きは次回。
六代目吉松です。
実は私、ある友人からの勧誘で、「佐草奈美(さそうなみ)」という名前を用いて、同人誌に小説を書いていたことがあります。
と、いうわけで せっかくなんで いい発表の機会なので
ご披露。
御堂の鬼の話
佐草 奈美
昔のことのお話です。街道沿いに小さな御堂がありました。古くは由緒あるお坊様がお建てになったものとのことですが、いつしか主はいなくなり、今ではすっかり荒れ果ててしまいました。街道沿いにあるのですから、旅人が雨露をしのぐにはちょうど良いのですが、誰も寄り付こうとしませんでした。だから、余計に荒れ果ててしまいました。
誰からともなくうわさが出ました。あの御堂には鬼が住んでいる。あそこに入れば食われてしまう。この間も若い娘さんが入っていくのを見たがそれっきり。雨宿りに入った行商の男も帰ってこない。村の人々は恐ろしがりました。泣き止まない子には「御堂につれていくよ」というと大人しくなったそうです。
ある若い絵師が恋をしました。絵師が絵を献上している高貴な身の上の主、その主に仕えていた女房にです。主に注文された絵を届けるとき、その女房はいつも主の右側、五番目に仕えていました。主のすぐそばではないところからも、それほど気に入られているわけではないのでしょう。でも、だからといって絵師が近づくことは到底できません。叶わない、そう思えば思うほど恋する気持ちは昂ぶってくるもの。今も昔も変わらない、人の業です。
そんな絵師の耳に、御堂の鬼の話が伝わってきました。鬼が住むという、食われたものもいるという。このうわさを聞いた絵師は、あることを思いつきました。
続きは次回。